【毒】きのうのウンチク・オフから・・・【毒】 room って何?

きのうの蘊蓄オフはわたしを含めて4人という少人数でしたが、
最初のころの蘊蓄オフを思い出したという声が出るほど、「濃い」内容でした。

そこで、ask や make の中心の役割や 「some=いくつか」はとんでもないとか、

(makeは「あるものをある状態に変える」と独眼龍さんが言い出して、
グリーンさんが「makeを「作る」にすると Make it easy. を理解するのに
「文法」が必要になってしまう」と言い出して・・・)

say と speak と talk と tell の役割の違いという具合に話がどんどん片付いて
いって、おー、このまま行けばすばらしい「反英和辞典」が作れる! と
思ったのですが・・・

大変なショックを受けたのは room の役割について。

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日本の将来・・・ 暗い? 明るい?

滅多に書かない内容ですね。

きのうアメリカから来た友だちと谷根千を散歩して、六義園のライトアップなどを
楽しみつついろいろ話して・・・

その中で、日本の将来という話が出たので、そのことをメモしておきたいのと、
そこで言い忘れたけれど、次に会ったときには必ず付け足しておきたいことを
メモしておきます・・・

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劇薬シャドーイングについて、つくづく反省

要するにわたしは自分が言ってきたことを何一つ、自分ではやってないのではないか?!

多読もやっと最近できるようになったばかり、
「シャドーイングは耳と口を直結して!」とか言って、
実は自分ではしっかり頭を通過させていたり、
劇薬シャドーイングも車に乗って、各国語ニュースをやっているときしかやらないし・・・

特に厳しく反省を迫られたのは、「XYZ」さんの音読を聞いたためでした・・・

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Skypeシャドーイング相談会へのお誘い

Skypeおしゃべり会は予想通り--じゃなかった、期待以上にうまく展開しています。

実はあまりにうまく行っているので、いろいろ夢が広がっていますが、
それはまたいずれお話ししましょう。

で、きょうはフォーラムへの投稿を「メロディー♪」さんのお勧めにより、
Skypeシャドーイング相談会へのお誘いをブログに転載することにしました。

Skypeシャドーイング相談会で何が起きるかについては、
メロディー♪さんのシャドーイング報告トピックを一緒にお読みください。

以下は現在最後の投稿です。

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朋あり遠方より来たる 亦楽しからずや

多読の最初の試みは立川高校で非常勤講師をしていたときでした--40年前。

大学の授業では一橋大学で、不発に終わった試みがありました--30年前。

今の形の、つまり多読三原則を利用して絵本からはじめる多読は10年前から。

一橋大学の時の教え子が facebook を使って連絡をくれました・・・

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リアナさんと夏時間とウンベルト・エーコ

きょうは午前11時からリアナさんおしゃべり会のはずでした。

リアナさんは昼の12時ちょうどに現れました。
(というのはもちろんSkypeに現れたのです。リアナさんの住まいは北米!)

「夏時間はいつ終わりましたか?」とたずねると、「数週間前」とのこと。
先週はリアナさんおしゃべり会が中止になったので、
夏時間が終わって日本時間との差が1時間ずれたのでしょう。

(来週の時間は、

フォーラムの「みんなでおしゃべり」の「リアナさんおしゃべり会」

でお知らせします。ご注目を!)

で、きのうの夜わたしは iPhone Kindle にウンベルト・エーコの「プラハの墓地」を
ダウンロードしました。ウンベルト・エーコといえば、小説の処女作が「薔薇の名前」で、
2作目は「フーコーの振り子」。

この2作目がとってもおもしろい小説で、中世の秘密結社がローマ教会に弾圧されて
地下に潜って雌伏し、何十年後だったか、何百年後だったかのある日に、
再結集しようという誓いを立てる。

結束の固い秘密結社の末裔たちは本気でそんな長い歳月のあとに
会おうとします。ところがローマ教会は(秘密結社の再結集を阻止しようと
したわけではないのだけれど、グレゴリウス歴だかなんだか、暦を変えてしまい、
末裔たちは誓いの「ある日」がいつだかわからなくなる・・・

フーコーの振り子はパリにあります。
ながーいコードの先についた重い金属球がゆっくりと振れて、
地球は回っているのにフーコーの振り子はその影響を受けずに一定の軸沿いに
振れ続ける・・・

きょうのリアナさんとのすれ違いから、わたしの思いは地球規模へと
広がったのでした。

なお、エーコの「フーコーの振り子」はその陰謀の規模の大きさで
「ダ・ヴィンチ・コード」をしのぐかもしれません。

多読クラス卒業生からのメール

急ぎ投稿します。

次のメールは電気通信大学でわたしの研究室の卒業生が送ってきた英文のメールです。

ずいぶん滑らかな文章なのでびっくりして、多読的ライティングの一つの見本として紹介します。

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The New Yorker 誌のブログから--再読について

「再読した場合も語数に入れていいですか?」--多読相談のQ&Aでは
おそらく五指に入る質問だと思われますが、今回の話題はそちらではなく、
まったく読書としての再読、三読、四読・・・ の話です。

On Rereading という本が出たようで、この記事はその書評です。

http://www.newyorker.com/online/blogs/books/2011/11/are-rereadings-better-readings.html

読みやすくはないので、わたしのアンテナに訴えてきた部分・・・

* Nabokov という「ロリータ」で有名になった小説家は「本は背中で読まなければ意味ない」と言っているとか。背筋に電気が走るような本を読みなさいということのようです。

* Nabokovはまた読書とは繰り返し読むことだと言っているそうです。

* 結局わたしには繰り返し読むことの喜びや危険(こどもの時に読んだ本を大人になって読んだらつまらなかったとか、若い頃の自分が見えてしまうとか)は初めて読む時とおなじように思えました。

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10月のテーマ!

10月のコピー.jpg村のchi-chan画伯から10月のテーマが届きました。息せき切って研究室(もうわたしの研究室ではなく、借りているだけですが)にやってきて、きのうの夜遅くまでがんばったんだから、できるだけ早くアップして!とのお達しです。
例によって、お腹周りの豊かなわたしと、思い切りハロウィーンの格好をしたchi-chanです。大きな画像で見ると迫力ですよ!chi-chan、ありがとう!!

The New Yoker誌のブログ The Book Bench から 若気の至り・・・?

過去というのはどういうものなのか?

・・・

吹く風は年をとっても
僕等には
人が年をとることが
わからない

わたしの友人が大学生の時に書いた「伝説」という詩の最後の一節です。

(なんとなく、初めて読んだときからこの一節はずっと忘れないだろうと
   思いましたが、本当に忘れることはなく、折に触れ思い出していました。)

けれどもさすがにわたしはこの歳になって、「歳をとる」ということが少しはわかって
きたような気がします。

たとえば、

http://www.newyorker.com/online/blogs/books/2011/10/worst-college-essays-1989.html

この記事は記事の筆者が、世界の思想界(?)を席巻したフランスの思想家たちに
「かぶれていた」大学時代(1980年代)を振り返った記事ですが・・・

同じようなことはわたしの大学時代にもありました。
・・・と振り返ることができます、今は。

それは全共闘運動というもので、大学や高校が若者によって閉鎖に追い込まれた
ほどすさまじいものでした。わたしは全共闘運動にも、全共闘と対立していたという
全学連(共産党より?)にも、「体制側」にもつかず、ただなんとなく・・・の生活をして
いましたね。若気の至りとはほど遠かった。

(デモには参加したことがなくて、一度見に行っただけ。
なんと都心のデモだったのに出身高校の後輩の女の子に見つかって、
「酒井さん、見学連ですか?」と声をかけられ、なぜか恥ずかしかった
たのを覚えています。)

もっとも、その後わたしより左にいた人たちがみんなわたしより右に行ってしまって、
ついには大学の教授会での発言から「酒井さんは全共闘だったらしい」と
噂されるようになりました。

(もちろん当時の「ラディカルさ」をそのまま内に秘めて、静かに激しいことを
やっている友だちもいます。)

過去には全共闘運動にも、脱構築の嵐にも参加しなかったわたしですが、
上の引用の最後にあるように、考え方はかなり全共闘運動の影響を受けて
今があるような気がします。

For us undergraduate Derrideans, the writing had the effect of waking us up, putting us on edge. Later, we rediscovered the virtue of a simple sentence, but we were never again as we were.

ただし、わたしは全共闘の自己否定にも、脱構築の難しい文章にも
信を置かなかったのですが。