The New Yoker誌のブログ The Book Bench から 若気の至り・・・?

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過去というのはどういうものなのか?

・・・

吹く風は年をとっても
僕等には
人が年をとることが
わからない

わたしの友人が大学生の時に書いた「伝説」という詩の最後の一節です。

(なんとなく、初めて読んだときからこの一節はずっと忘れないだろうと
   思いましたが、本当に忘れることはなく、折に触れ思い出していました。)

けれどもさすがにわたしはこの歳になって、「歳をとる」ということが少しはわかって
きたような気がします。

たとえば、

http://www.newyorker.com/online/blogs/books/2011/10/worst-college-essays-1989.html

この記事は記事の筆者が、世界の思想界(?)を席巻したフランスの思想家たちに
「かぶれていた」大学時代(1980年代)を振り返った記事ですが・・・

同じようなことはわたしの大学時代にもありました。
・・・と振り返ることができます、今は。

それは全共闘運動というもので、大学や高校が若者によって閉鎖に追い込まれた
ほどすさまじいものでした。わたしは全共闘運動にも、全共闘と対立していたという
全学連(共産党より?)にも、「体制側」にもつかず、ただなんとなく・・・の生活をして
いましたね。若気の至りとはほど遠かった。

(デモには参加したことがなくて、一度見に行っただけ。
なんと都心のデモだったのに出身高校の後輩の女の子に見つかって、
「酒井さん、見学連ですか?」と声をかけられ、なぜか恥ずかしかった
たのを覚えています。)

もっとも、その後わたしより左にいた人たちがみんなわたしより右に行ってしまって、
ついには大学の教授会での発言から「酒井さんは全共闘だったらしい」と
噂されるようになりました。

(もちろん当時の「ラディカルさ」をそのまま内に秘めて、静かに激しいことを
やっている友だちもいます。)

過去には全共闘運動にも、脱構築の嵐にも参加しなかったわたしですが、
上の引用の最後にあるように、考え方はかなり全共闘運動の影響を受けて
今があるような気がします。

For us undergraduate Derrideans, the writing had the effect of waking us up, putting us on edge. Later, we rediscovered the virtue of a simple sentence, but we were never again as we were.

ただし、わたしは全共闘の自己否定にも、脱構築の難しい文章にも
信を置かなかったのですが。