プラハの春の記事 の続きです。
(まったく個人的な反政治的覚え書きです。そこで、タイトルも変えました。)
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(「反」政治的なので、右からも左からも非難されることでしょう。)
「プラハの春」という標題のwikiを見たら、こんな文章が・・・
チェコスロヴァキア国民の受動的抵抗 [編集]
当日、国営放送は国歌「ヴルタヴァ(モルダウ)」を流し続けるのみで対外的には何のアナウンスもせず、また国際電話やニュースの外信用テレックスも封鎖され、唯一規制出来なかったアマチュア無線からの発信と、交信に応じた局や傍受したBCLによって事件は全世界の知るところとなった。
「アマチュア無線による交信」にわたしは膝を打つ思いでした。同じ種類の抵抗が今はインターネットによって、はるかに大きく、強く実行できるのではないか? 組織に属さない人たちが情報交換し、フラッシュ・モブを組織して、突発的、即時解散的「デモ」をはじめる。
そもそも多読だって、インターネットなしにはこんな風な広がりにはならなかっただろう。
とすれば、インターネットによって世の中に5%しかいない人たちが、人を離れ、家庭を離れ、会社を離れ、地域を離れ、国家を離れ、国益を無視し、けれども暮らしの実感として大事な目的のために生活の場から離れずにゆるく結びつくことも可能かもしれない。
もしそれが可能なら、互いに連絡しあって体制のほころびを見つけ、
(体制はすなわち硬直しているので、かならずほころびや隙間があるはず・・・
プラハの春のアマチュア無線のように。)
体制の中に潜りこみ、実は世の中の流れに逆らって生きる--それさえ可能かもしれない。
(流されるのが好きな人、性に合っている人はそのままどうぞ・・・!)
受動的抵抗でいいのか? 敗北主義だ! という叱責がいまも来るのでしょうか?
実はまもなく出版される「44通の手紙」という本には厳しい批判がすでに書いてあるのですが・・・
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