流れに棹さして--試験へ資格へ草木もなびく

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草木だけじゃありませんぞ。
なんと文部科学省が先頭に立ってなびいているわけで、
これじゃあ日本中誰も彼もなびくかに見えるのも無理はない。

ずいぶん前に、朝日新聞に文部科学省の意向について記事が載っていて、
ああ、またか、との思い已まず、ネット版をひっくり返してやはり書いておくことに・・・

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ネット版はここ

じゃりじゃりとわたしの口の中がいらだつ言葉がいっぱい。
いわく 「文部科学省は、現役学生向けの「共通テスト」」、
いわく 「学習成果の伸びが客観的にわかるように」
いわく 「大学生の「能力測定」」
いわく 「成長度を「可視化」できると期待」
そして 「成果重視の仕組みを作る」

・・・まったく困った時代になったものです。
なんでもかんでも、試験、資格、点数、数値目標、成果主義・・・

世の中が数字へ数字へと流されるのも無理はない。
文部科学省が率先して数値目標だなんだと成果主義を唱えて、
昨今の都立高校には「経営企画室」なるものがあるらしい。
すべてはバブル崩壊以降、日本が自信をなくして、
藁を掴むように数字に頼ろうとしているからでしょう。

無論、教育機関を営利企業と同じ見方で評価しようというのも間違いでしょう。
「文化」というのは拝金合理主義の呪縛を抜け出すことであって、
財を生み出さない行為、見えないものをいとおしむことなのではないのだろうか? 
生存レベルからせっかく文化的存在に抜け出した人類を、
昨今の金・金・金の風潮は逆行させるように思われるけれども、
世間の評価ではそれはむしろ進歩的なことであるらしい。

文部省としては大学教育の評価を客観的にしたい、従って成果は数字で表す--
そのためには試験を、という理屈と見える。

世の中がまた「試験」には極度に怯えいて、
まるで黄門様の印籠を見せられたかのように試験にひれ伏し、資格を崇め、
数字を前にグゥーの音も出ない。

試験については眉を顰めるような体験数知れずだが、印象的なことがいままでに
二つあった。

一つは東京都に何か試験関係の研究機関があるらしく、そこの研究員らしい
英語の先生が「試験は万能ではありませんから」と言うのを聞いたことがある。
それは逆に「試験よりすばらしいものはない。わたしはその試験の専門家です。」と
言わんばかりの得意然とした物言いだった。

(実はこの人は試験は万能だと思っているに違いない。万能だと思いたいが
それは「試験学」の常識ではないので、一応万能ではないと言っている?)

「サプリメントは万能です」などと言うだろうか?
「車は万能です」などと言うだろうか?
もいろん言わない。
サプリメントで体を作ることはできないし、
車でラーメンを作ることだってできやしない。

教育現場で試験が万能ではないなどと、今更言わなくてもいいと思うけれども、
それを言う場面があるほど試験は崇められ、世の中の流される人々は
試験を、何か光り輝く高札でもあるかのように仰ぎ見てしまう。
つい最近のブログで書いたように、入試で人生が決まってしまうと、
たくさんの人が思い込んでいる。

もう一つ驚いたのは、ある「受験専門家」が「客観的な試験はある」と宣うたこと
だった。

「客観的な試験」などというものはあるはずがない。
「試し」というからにはサンプリングに過ぎず、どうサンプルを選ぶかは主観でしか
ない。試験の専門家がその程度のことも考えていなかった。

すなわち二つの例からわかることは、

試験は試験専門家にも偶像となっている!

そのくらい世間の流れというのは強く激しい。

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けれども流されない人たちがいる。

多読村に集う人々は「流されない人々」だとわたしは考えていて、
これだけ身の回りで滔々と「常識」が流れ、ほとんどの人がそれを当然として
流れに身を任せているのに、よくもまあみなさん流れに乗らず、
むしろ冷ややかな目で見ていられるものだと思う。

「外国語というからにはまず単語を覚えなければ。最低限の文法を知らなければ。
試験でいい点数を取らなければ・・・!」という「常識」を捨てることができた人たち
--昨年の今頃書いていた「新たな旅立ちのために」の「多読村宣言」の中で、
みなさんのことを「エリート」と呼んだのはそういう意味だった。