赤字のところが今回の変更部分です!
前回までの変更部分は黒にしてあります。
【新たな旅へ・・・】と題して、もう半年以上、多読村の次の冒険のことを
ほのめかしてきました。
まもなくフォーラムの公開をもって、冒険の旅がはじまります。
その旅で目指す道を 【多読村宣言】 と名付けることにしました!
************多読村宣言(仮)************
をさなごのやうに!
好奇心と想像力!
冒険心と思いやり
持ち物は こどもの夢 と おとなの知恵
正しく より 楽しく
頭 より 手足
学ぶ より 使う
学んでから使う より 使いながら学ぶ
部分 より 全体
ボトムアップ より トップダウン
大衆 より エリート
凡人 より 奇人
学校 より 仲間
言葉の最小単位は「 語 」ではない
辞書 より 常識 文法 より 状況
質 より 量
Language learners より language users へ
Focus on words より transparency へ
Focus on language より language transparency
Accuracy より fluency へ
******************************
現在は(仮) です。順番も言い回しも、十分練ったとは言えません。
だから (仮) です。
ちゃんとした「多読村宣言」は、9月に新しい意匠のページに掲げます。
(仮) の字が取れるように、みなさん、意見や感想や注文をください!
宣言(仮) の趣旨を理解してほしいので、「続き」に少し説明を書きます。
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* をさなごのやうに!
これは多読村開村時からのわたしの目標だったのに、最初の「多読村宣言(仮)」
には入っていませんでした。大間違い。
こどもが母語を獲得する時とおなじやり方で、
大人も外国語を身につけられるのではないか?
これはやはりあまりに魅力的目標です。やはり宣言の最初に持ってくるべきでした。
細部については村のお色直しが完成したら、きちんと、わかりやすく説明します。
* 好奇心と想像力!
こどもの特質は好奇心でしょうね。そこに大人の経験を生かした想像力が
加われば、鬼に金棒!? こわいものはありません。
* 冒険心と思いやり (あまりうまい組み合わせではありませんか?)
好奇心があって冒険心があれば、だれもやったことのないことに踏み出せる!
周囲や仕来りを顧みない冒険心と、回りの人を思いやるやさしさはできれば
一緒に持っていたい。
* 持ち物は こどもの夢 と おとなの知恵
わたしたちの旅に必要なものは、夢 と ??? 何でしょうね?
みなさんの提案を待ちます・・・
提案はなかったのですが、上のように変えました。
わかりにくいかな?
こどもの好奇心、集中力、そして夢を持って、そこにおとなの経験と知恵が
加われば、外国語の獲得なんて、楽ちんにすばやくできる!
ということを目指したいのですが、どうでしょう?
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きょうはここまで・・・ 続きの赤字部分はあした・・・ おやすみなさい・・・
* 言葉の最小単位は 「 語 」 ではない
これはしばらく前からわたしが言い続けてきたことですが、
ついきのう(8月24日)痛切な体験があり、わたし自身このことの意味を
実感してはいないのだということがわかりました。
宣言の準備にしては長くなりますが、この村の宣言さえもみなさんが作って
いくよい例とも思われるので、起きたとおりに報告して、そこからこの
項目の意味をもう一度(自ら)確認することにします。
つい最近twitter(@kunisakai)で話題になったことですが、
ある多読仲間Aさんがthought が think の過去形だったということを知らずに、
The Buddy Files というシリーズを楽しく読みました。
そのことをわたしの研究室で聞いたある学生Bくんが、「そんなことも知らずになぜ
The Buddy Files を読めるのですか?!」と、Aさんに詰め寄ったそうです。
(わたしはその現場にいなかった)
その学生はおなじシリーズの第1巻を「難しくて投げた」のだそうです。
そこから、twitterで、「では、Aさんはどのくらいの語を知らないのか、
線を引いてみよう。それを見ながら、AさんとBくんとわたしで、
わかる、わからない、ということを考えてみよう」ということになりました。
残念ながら3人の日程が合わず、いまのところAさんがThe Buddy Files #1 の
「知らない語」に線を引く作業だけをした段階が、きのうの多読サークルまでの
経過です。
きのうの多読サークルで、Aさんが「知らない語に線を引くって、毒ですね」と
言いました。これは昔(多読的昔、つまり6、7年前?)にも一度同じようなことが
ありました。
わたしがSSSの掲示板で、みなさんに「知らない語に線を引いて、どのくらい
知らない語があるか知らせてください」とお願いして、結局それはとてもよくない
お願いだったことがわかり、中止されたのでした。
その時、「近眼の独眼龍」さんが「とても辛い作業だった」と言っていたのを
今も鮮明に覚えています。けれども、その時は、わたしのお願いがどういうもの
なのか、わたしにはわかっていなかった・・・
今回、Aさんが「毒ですね」と言ったときにも、わたしは「独眼龍さんもおなじことを
言っていたな」と思っただけで、たいして意に介さずにいました。
ところがきのう多読サークルに同席していたCさんが、「知らない語の線引き」に
非常に怒って、わたしに「言葉の最小単位は語ではない」だなんて言いながら、
「知らない語に線を引かせるなんて、どういうことですか!」とわたしに食って
かかったのでした。
帰り道、やはり同席していたDさんは「知らない語に線を引くなんて、わたしだったら
簡単にやってしまいます」と述懐。ぼくもそう思ったのですが、電車の駅を降りてから
考えるにつけ、「あ、俺はやっぱりわかっていなかった」と痛感しました・・・
・・・つまり、「言葉の最小単位は語ではない」とわたしが考えるのは、
まだまだ観念的なレベルの話で、もちろん「言葉の最小単位は語ではない」という
ことが実感としてわかっていたのではないのです。
それが、きのう厳しくたしなめられたことで、やっと少しわかってきたような気が
します。でも、実感としてわかったのではないのです。いわばMRIやCTスキャンや、
レントゲン写真で、頭の中の実態を画像としてとらえた程度です。
とはいうものの、「語」がほかの様々なものと絡み合って渾然一体となっていて、
そこから 一語 を取り出して 「知っている、知らない」 と 問うことは
できない--意味がないということがおぼろげながら、見えた気がしました。
(いまその「見えた感じ」は徐々に薄れつつある・・・ 嗚呼!)
けれどもきのうからやっと、「言葉の最小単位は語ではない」という宣言に
実質が伴いかけてきました。この感触を大切にしようと思います。
みなさん、ありがとう!
「英英辞典といえども、辞書はわたしたちの体が知っている言葉のほんの
一部しか表現していないし、英和辞典に至っては日英語のずれを集めたに
すぎない」と言ってきました。
* 正しく より 楽しく
これまでの英語学習は「正しい英語」を目指してきました。
多読村では、「正しい」ことよりも「楽しい」ことを優先します。
「正しい」は楽しくたくさん使うことについてくると仮定します。
(たくさん使ったあとで、必要があれば若干の勉強も考えに入れています。)
* 頭よりまず手足
これは比喩です。
いろいろ考える前にまず動こう! という提案です。
Skypeでみんなに英語を聞かれるのはどうも・・・ という場合に
この標語を思い出して一歩前に出てくださるとうれしいです。
* 学ぶ より 使う
これまでは外国語は 「学んでから使う」 ものでした。
多読村では 「使う」 と 「学ぶ」は不即不離、即かず離れず、どっちつかず、です。
* 学んでから使う より 使いながら学ぶ
使いはじめるタイミングも、多読村では(わたしの知る)どんな「英語学習サイト」とも
違います。
「ある程度学んでから使う」 のではなく 「すぐに使いはじめましょう」!
多読がうまく行ったのも、最初から 「学習」 ではなく 「読書」だったからでは
ないでしょうか?
「わたしの多読初期は学習だった」という人もいるかもしれませんが、
実はその頃も「何かを学んだ」喜びだったでしょうか?
それよりは「英語の本を1冊読み通した喜び」であり、
「英語で読書した喜び」だったのではありませんか?
その時あなたは英語を読書に「使った」のではないでしょうか?
*部分 より 全体
これは非常に大事ですね。
でも、これを入れると、ほかにもたくさん入れたいことが出てきます。
いいでしょう。出た物は全部足していって、みなさんの感想や意見を聞いて、
取捨選択することにしましょう。
で、「部分より全体」は「英語学習」とはまったく方向が違うので、大事です。
英語学習では、語も、文法も、音も、すべて部分部分を正しくして、
それを積み重ねていけば「正しい英語」に到達するという大前提があります。
(その不毛さはみなさんご存じの通りです。)
多読村では全体からはじまります。その最小単位は「文」です。
もちろん文の回りに物語がなければいけません。
文は物語に発展しうるいちばん小さな塊だと思われます。
語も、文法も、音も、文をたくさん重ねることで少しずつ分化していきます。
「あ、この語はあそこでも出てきた!」、「こういう時はいつも , said Kipper. だぞ」
「ワデガナドゥー の ワ は ワリュウェィディンフォ の ワ と同じか!」
という具合に、たくさん読み聞きすると 全体が部分に分かれていく のだと
思われます。
そうでした、この宣言は 「ボトム・アップ より トップ・ダウン」 とも言えますね。
(もちろん実際には 部分と全体は切り離せないし、部分より全体が大切、
なわけでもありません。またトップダウンだけでなく「ボトムアップ」が必要な場合も
出てくるでしょう。
ただ、多読村は世の中の「常識」を洗い流して、好き勝手にできるようになるための
場です。だから「多読三原則」と同じで、敢えてこれまでの常識に反する部分を
強調します。)
* 大衆 より エリート
本文の 「大衆 より エリート」を読んだ人が早速twitterでこういう感想を
送ってきました。(twitterってすごい! と、初めて思いました。)
おおー! 楽しみです! 「大衆よりエリート」が私はちょっとひっかかりました(エリートになりたくない臍曲がりなのです)。「秀才より天才」想定の範囲内で秀才になるより、なんだかわからないのになぜか想定外に対応できてしまう天才へ??
実はわたしの「エリート宣言」もかなり臍曲がりです。
おそらく回りの世の中のほとんどの人たちは多読村の住人をエリートとは見ない
でしょう。でも、わたしたちはエリートなのです! というのは・・・
大衆は・・・
英語を学習します。試験で自分を計ってもらおうとします。
他人が考えたレールをできるだけはずれないように、ほかの人の後ろを辿ります。
概して、自分以外のところに「従うべき道がある、えらい人がいる」と考えます。
エリートは・・・
英語を使います。試験で自分を計ろうとしません。
自分に合った道を見つけて、たとえ同じ道を往く人がいなくても、
一人で歩を進めます。一個の人間だという誇りがあります。
こうした、世間から見れば「隠れエリート」のことをもっと知りたい人は
いしいひさいちさんの「地底人」シリーズ、「最底人」シリーズを参照してください!
(それでもやっぱりこの項目は疑問が出そう・・・)
やはり出ました、いろいろな意見が。
たとえば エリートよりももっと徹底している 「大衆 より オタクへ」
なるほどね。わたしは実はみなさんにオタクになってほしいと思っています。
回りを省みずに自分らしさを追い求める--その時回りにはオタクでも、エリートでも
奇人でもなく「大衆」と見られていれば、もっといいと思いますが・・・
それから、これも同趣旨でとてもいいと思ったのは、「凡人 より 奇人」!
いいですねえ、これも!
でも「奇人」も「オタク」も、みなさんは多読村宣言として受け入れるだろうか?
みなさん、自分たちがどれほど「我が道を往く」変わった人たちか、
自覚はないようだから・・・
* 凡人 より 奇人
「ぴ~ママ」さんの提案を採用して、この宣言にしようと思います。
凡人と奇人なら、どちらが上ということはないように感じるのです、ぼくは。
そこがとっても気に入った。
* 学校 より 仲間
これはわたしが何十年も前から言ってきたことですが、多読を支える三本柱を
強調するには都合がいいので、復活させることにしました。
(みなさんの受けがよければ・・・)
会話学校に通う人もいるでしょうが、頼ってはなりませぬ。
むしろ会話学校は 仲間 友だち を見つけるために通いましょう。
できれば先生の中に友だちになれる人がいれば最高です。
決して、教科書や個人授業だの何だのという「メソッド」に惑わされないように!
* 質より量
これは「正しい より 楽しく」の原型です。
質(正しさ) は 量(楽しいから続く) についてきます。
わたしたちは 正しいかどうかなんて気にしなくていいのです。
ただ楽しくたくさん使い、たくさん吸収するうちに、正しくなっていきます。
わたしたちが母語を獲得した道はまさに 量が質をもたらした のです。
もちろん以前から書いているとおり、急な必要に迫られたときは
ドーピングによって質を無理矢理底上げする場合もあります。
けれども運動選手のドーピングと同じで、長く続ければ毒になります。
・・・どうも「質より量」は評判が悪いようです。
捲土重来を期して、今回の宣言からははずすことにします。
* Language learners から language users へ
もういい加減、「学習、学ぶ、習う」のはやめにしましょう。
正しく とか、人に笑われないように とか、世間に出て恥ずかしくないように などと
邪念(スケベ心とも・・・)があるから「まずは ほかの人のやっている通りに」 などと
考えるのです。
まるで、自分のことしか考えない をさなご のように
learner を 飛び越して、あるいは抜け出て user になりましょう。
それで、うまく 「自分は user 」 と自分を騙せれば、learnすることも早くできるでしょう。
* focus on words から transparencyへ
細かいことですが、一つ一つの語 や 文法事項 に心を砕くのはやめましょう!
完全に語の意味を説明できた辞書などないし(用例は役に立つとしても)、
完璧に自然言語を説明できた文法などないのです。
語や文法が透明になって、内容だけが心または頭に残る--そういう読み方、
表現の仕方に向かっていきましょう。
* Focus on language より language transparency
外国語だからといって、一語一語や文法に注目してはなりませぬ。
注目すべきはその外国語が表現している内容です。
内容が自分の好みに合っているかどうか? 好奇心を刺激するかどうか?
つまり、言葉は透明になって、その向こうにある内容を見つめてください。
これも多読のパラドックスですが、言葉がいちばんよく吸収されるのは、
言葉が透明な時のように思われます。
まるで禅の公案ですね。欲しいものは、欲しがらない時にこそ手に入る。
* Accuracy より fluency
この表現はかつてわたしが提案して、みなさんのブーイングにより却下されました。
ひょっとすると今回も却下されるかもしれません。
みなさんの意見次第では今回も取り下げます。
しかし今のところはちょっとだけわたしの思い入れを聞いてください。
これも 「正しく より 楽しく」の変形ですね。
言語教育の分野から学術用語をそのまま持ってきた齟齬はあるかもしれません。
そういう意味ではいつでも取り下げますが、正しく より 間断なく とでもいうべき
頭の切り換えをうまく表現した宣言を募集します。
**********************************
さて、今晩はここまでにします。
今後も8月中はいつもこの項目をブログのトップに置いて、
みなさんからのメールや投稿を元に、ちゃんとした「宣言」になるように
磨きをかけていこうと考えています。
これからも よろしく お願い します・・・
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