精読と多読的精読について一言・・・

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「たこぼ」さんのメールを紹介した記事で、わたしは「精読」という表現と
「多読的精読」という表現と、両方を使ったような気がします。

そこで、ちょこっと説明・・・

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そもそも、たこぼさんの記事でも書きましたが、「精読」というものはないと思います。

これまでの精読は分析しながら読みますが、日本語であれ、外国語であれ、
実際の読書では分析しながらということはあり得ません。
精読は読書とは何の関係もありません。単に、日本の学校英語独特の、
試験のためにしか役立たない外国語対処法ですね。

いや、待てよ?

最近はTOEFLやTOEICはおろか、大学の入学試験も英文の量が多くなっていて、
精読していてはとても間に合わないことがありますね。
そうすると、精読は試験のためにも役立たない・・・
単に高校や予備校で先生がえらそうにするためにあるだけかもしれません。

では「多読的精読」ってなんでしょう?

何度も書いているように「さらっと読んで深くわかる」ことを言います。
( ・・・って、わたしが勝手に言っているだけですが)
本当はただ「読書」と言いたいところですが、これまでの精読と対比するために、
「多読的」をくっつけています。たこぼさんのように「日本語の読書とおなじ勢いで
読んでしまって、英語であることも忘れて、情景だけが頭に残っている・・・」
そういう読み方を「多読的精読」と呼びたいと考えます。そのときに深く味わった
理解は従来のどんな「精読」でも不可能な理解だと思います。

わたしは多読を広めようとするはるか前から、それを同僚の先生たちに言って
来ました。そのときの言い方は

  「さっと読んでわからない文章は、いくら時間をかけたってわからない。
   辞書を引いたり、文法をこねくり回した読解なんて、原文から遠ざかるばかりだ」

というもので、こんな矛盾したような言い方はだれもわからなかっただろうなと、
今は思います。わからなければ時間をかけるというのが当時も今も「常識」ですから
ね。

多読仲間ならわかる!?

でも、みなさんは単に「精読」と言ってくださっても結構です。
そもそも「多読的精読」なんていうのは目を惹くための「パラドックス」なのですから・・・

ということで、簡単な説明を終わります。