学校英語を捨てることも必要だ!
多読は実際に使われる文字に触れ、使うことで、
tadokuは実際に使われる音声に触れ、使うことだとしましょう。
だとすると、わたしたちがtadokuを通じて実感する変化とは、
学校英語で習った語や文法の知識がいかに実際使われる英語とずれているか
学校英語で習った英語の「発音」や音読や話し方がいかに実際使われる英語とずれているか
--そのずれに次第に気づいていくこととも言えます。
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20年前にはじめて書いた本で、わたしは「学校英語は人工言語だ」と書きました。
今も考えは変わっていません。
多読・tadokuが進むにつれて、学校英語は人工英語であることに気がついて
いくはずだと考えています。
(学校英語をほとんど吸収しなかった人たちは幸いです--
そんなものに囚われずに直接英語の方へ向かえばよいのですからね。)
どんな風になるかというと・・・
学校で習った訳語に首をひねる、
教科書や参考書の英文が奇妙に感じられる、
英和辞典の記述に首をかしげる、
文法書の書き方に疑問が生じてくる、
いわゆる発音練習や音読が不自然に聞こえる
こういうことが起きます。
逆に言うと、こういうことが起きなければ学校英語を抜け出して、
現実に使われる英語に触れているとは言えないと思われます。
学校英語という色眼鏡を通して、日本語をまぶして英語に触れているだけです。
学校英語の尻尾を生やしたまま多読・tadokuしていると、最悪の場合、
「be=です、ます、 なる・・・」になってしまう。結局学校英語から抜け出せないんですね。
尻尾が犬を振る the tail wagging the dog、主客転倒、軒を貸して母屋を取られる
そしてまた、この尻尾が実に強烈で、「さよなら英文法」でも書きましたが、
東大の英文科の有名な先生たちでさえ、尻尾に振り回されて、英文の理解が
足りてなかったりする・・・
何が足りないかというと、英語は日本語と違う言葉なのだという認識でしょうか。
学校で習った英文和訳を当然と考えているうちに、その違いが分からなくなって
しまったのでしょうね。
とこんなことを改めて考えるきっかけは「natubon」さんの娘さんのことでした。
それをここでもう一度振り返って、学校英語去るべしの言としましょうか。
わたしはよく「window=窓」ではないと言って、窓を開ける動作、windowを開ける
動作を聞いている人たちにしてもらいますが、それをある中学校の
多読講演会で聞いたnatubonさんがご自分の娘さんに「試して」みた・・・
窓とwindow をあけるジェスチャーを娘にも試してみました。
窓は普通に開けましたが、windowは手のひらを上にして下から上に動かしました。
日本語と外国語を混ぜて理解しようとしないこと--これは外国語理解の
土台でしょうね。土台がないところに文法と単語で砂の城を作る文科省の方針は
お金と時間の無駄、その上気持ちと頭の無駄ですね。
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