今回は英語の先生ではなく、学校英語そのものの批判です。
フォーラムで「kiwi」さんがこんな投稿をしていました。
わたしが引用すればそのまま学校英語批判になると考えたので、紹介します。
上の投稿から一部を抜き出しています。
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学校英語の害はそれこそ枚挙に暇がありませんが、根本的には
娘の多読手帳を見たら、始めたのが小学2年生で、いまさらながらもう6年もやってるんだと驚きました。
100万語に至った時、2000冊くらいの本を読んでいました。
1年前くらいから、音が自分の読むスピードと合わなくなり、音なしで読むのを好むようになりました。
それまでは長いものだとRald DhalやDarren Shanを聞き読みしていました。
音なしになってから、今まで読んだことのある本は2,3万語くらいの本も読みますが、初めて読む本は1,2千語くらいまでの本が多いです。
最近でも200語くらいの本も読んでいて、あまり語数は関係ないみたいです。
(我田引水ですが、↑ ここは「語数より冊数?」の話題に通じますね。)
そうやって多読で楽しんできたので、最初、学校英語に強烈な反応を示しました。
“a” “the”の意味が分からないと言って、大泣きしたのです。
学校でその二つの単語について説明を聞いたら訳が分からなくなったらしいです。
作文で、変な所に”a”をつけたりします。
“a my dog”とか。
名詞の前には”a”をつける、と思い込んで、とにかくつけてしまってる様子。あと、be動詞と一般動詞、ていうのもだめです。
“I am play tennis.”とか書いたりします。
読む、聞くはやってきたけれど、書く、話すはやってこなかったので、そんなものなのかな。たぶん、多書をして行けば、そこら辺の感覚はついてくるのかなと思いますが。
おそらくそうだと思います。いや、というより・・・
そこら辺の感覚は中学校で英語の授業が始まる前には「ついて」いたのではないか?
学校の授業が混乱させたのではないかと、わたしは推測します。
というのは、 a my dog という言い方は多読している時には出会わなかった
はずだからです・・・
話すについては、英検準2級の2次の面接のとき、たくさんしゃべれたと言って自分でびっくりしていました。
頭の中にお話が英語のままいっぱい入っているからか、ブックトークをしてもらうと、じょうずにいろんな言葉を使って話してくれます。
文法的におかしいところはいっぱいありますが。できれば、間違いを気にせずたくさん書き、たくさん話して、力をつけてほしいと思います。
ほんとにそうですね。
Hちゃんの場合はこれまで話したことがなくてもすでにたっぷり貯まっていたから、
いつでもあふれ出す用意ができていた典型的な場合だと思います。
(試験官を前にして、「自分でびっくり」するくらいおしゃべりするHちゃんを
見たかったぞ! 電通大ではとにかく靜かな子でしたからね。
今はなんだか大輪の花を咲かせようとしている直前のような気がする。
ああ、なんだか、孫を見るような感想だ・・・!)
1年間学校の英語の授業を受けてきて、本人は多読と学校英語は全然別物と割り切れるようになってきました。
それを聞いて少し安心しました・・・
けれども、あのHちゃんをそんな風に困らせる学校英語というのは腹が立ちます。
要するに文部科学省は英語のことをなぁーんにも分かっていないのですね・・・
a や the や 一般動詞 や be動詞 なんかを中学1年から教え込もうとするなんて、
まったくわかってない! 結局文部科学省にも教科書会社にも学校の先生にも
日本語を通さずに英語が分かるという人がいないということでしょうね・・・
ちなみに、kiwiさんとHちゃんは次のような人たちです・・・
酒井せんせい、こんにちは。
先日、「だれでも多読武蔵野・三鷹」で指切りして以来、先延ばしにしていた報告をやっとします。
フォーラム初投稿かも・・・私が今とっている、インターネット大学CourseraのPhilosophy入門の講座には、いろんな哲学者の格言が引用されます。
私の英語力のせいもあって早くもドロップアウト気味ですが、
英語力うんぬんではなく、俯瞰的に英文をとらえる力がtadokuで培われる事例かなと思うことを一つ。Often the worst thing to do with what looks like a real philosophical question is to answer it.
It can get in the way of fuller understanding of what the problem really is and where it comes from.”
Barry Stroudこの文章がぱっとわからくて、行きつ戻りつ考えていたら、横からのぞいた中1の娘が、
「哲学は答えることが大事なんじゃなくて、答えを出すまでが大事なんだ。」
というようなことを言いました。単語の意味や文章の構造に振り回されるず、この哲学者が何を言いたいかを感じることができている気がしました。
これはすごいなあ・・・ どうしてこんな風に感じることができるのだろう?
これはほとんど「スーパー中1」、「Aさん、Nさん」以来の
(そして水曜多読講座のYさん以来の?)
「奇跡」かもしれません。
「多読だけでは「むずかしい英文」は読めない」--というのが、
多読detractors つまりtadoku懐疑派の常套文句だったのですからね。
それに対してわたしは「いちばん大事なのはやさしい言葉だ、「基本的な言葉」だ」
と言い続けてきたわけですが、まさか中学1年生が上の英文の核をしっかり捉えきる
とは、まったく予想していませんでした。
(やさしい絵本をたくさん読んでいれば、いつの日か(高校生くらい?)かならず
「難しい文章」も読めるようになる、とは考えていました。
けれども、中学1年生にはふつう、上の英文に書いてある「思想」がそもそも
何のことかわからないはず・・・?)
面白いのは、今日、もう一度娘にこの文章を見せたら、訳そうとしてしまってうまく言葉にできなかったことです。
最近は授業で和訳をする機会が多く、うまく英語脳にチェンジできないようです。
子供は柔らかい分、影響も受けやすいのかな。
さあ、そこが学校英語の本当の害です。
Hちゃん、なんとか学校の授業をすり抜けるんだ! 生き延びるんだ!
娘のtadokuも気付けば100万語を超え、先日受けた英検準2級の長文とリスニングは正答率が9割でした。
そして長文が楽しく読めたと言っていました。
最近は音なしで読むのを好むようになり、読む本も1000語以下が多いです。
短めの本を読んで100万語、というのはやはり目安になる気がします。あと、tadokuは限りなく自転車に乗る練習に近いと実感しました。
自転車は一度コツをつかむと、しばらく乗っていなくてもまた乗った時にすぐに乗り方を思い出します。娘も中学生になって忙しくなってから、「だれでも多読」にも行かなくなり、英語の本を読む機会が減っていましたが、
準2級を受けるので、意識的に本を沢山読んだら、すぐにカンが戻ったようです。
その通りですね。そこが覚えてもすぐ忘れる学校英語と違うところですね。
多読・多聴で吸収した外国語は、まるで体の奥深くに染みこんでいて、
忘れたり、干上がったりしないかのようです。そのことは電通大の授業で知らされて、
本当に驚きました。2ヶ月の夏休みが間に入っても、すぐに元の長さの本を
夏休み前と同じように読み始めたのでした。
とはいえ、娘もまた「だれでも多読」に行って、本をコンスタントに読んでくれればなあと思います。
では、せんせい、また武蔵野プレイスでお待ちしています!
はい、また行きます!
武蔵野プレイスの「だれでも多読武蔵野」の人たちは本当にすばらしいのです。
1年経たずにペーパーバックを読み始めた人が数人(ただし、英語の勉強の経験
あり。うまくお勉強の態度を捨てられた人たち)
Magic Tree House の長さの子ども向けペーパーを読み始めた人も数人
(こちらは英語の勉強はほとんどゼロと言っていいでしょう。わたしとしては
こちらの方が驚くべき変化だと思っています)、
なお、どちらも家で読んだり聞いたりする時間がかなりあった人たちのようです。
武蔵野プレイスの集まりについては引き続きNPO多言語多読のfacebookで
お知らせしていきます。お楽しみに!
それにしても、学校英語め! Hちゃんを哀しくさせて・・・ 許さんぞ、見ておれ!!
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