成功は失敗の元

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これも書きにくい話題です。けれども「MIKI」さんがfacebookでこのことを
わたしに問い質したので、やはり書きましょう。

普通は逆ですが、失敗は成功の元 であるように 成功は失敗の元 という場合も
同じ数だけあるのではないだろうか?

これを「成功体験」という風に言うと、わかりやすいのでしょうね、昨今は・・・

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ある人が鋭い意見を言っていました。

「(ある受験塾は)もう満足してるんだと思います。」

なるほど、そう考えると、非常にわかりやすくなります。
受験塾としては多読から先へ行く気はない。

なぜなら入試の英語はほとんど文字だから、受験塾としては入試で点数が
とれればそれでいいわけです。その点で多読はたしかに成功している。
したがって、多読の先へ行く必要はそもそもない! 
多読の考え方を活かして話したり、書いたりに利用してみようなんていう
「冒険」に時間もお金もかけるなんて、ありえないわけです。
多読と旧来の文法訳読や単語暗記を接ぎ木しすればお金と時間が節約できる
ということなのでしょう。

多読の成功体験がその先へ進む可能性をはなから封じている・・・

(多読の 「しなやかさとしぶとさ」(robustness と resilience)つまり、
多読にかなり無茶な変形を加えてもある程度成果は出ることがかえって
邪魔をしているとも言えます。なお、ある受験塾を持ち出したのは、
もっと持ち出しにくい場合の代わりです。)

翻ってわたしにとっては、多読ははじまった直後から変化してきました。
そしていまはかなりはっきり「多読は読むだけではない」と確信しています。
多読の考え方は いわゆる4技能すべてに通じそうだ、というわけです。

(そのこと自体が4技能という分け方を否定することにもなりますが。)

いわゆる「GR」つまり「段階別読み物」で10年前に始まった多読は、
聞く方へ、話す方へ、書く方へと止めようもなく広がってきました。

(GRの功罪については別の記事で書きます。これも微妙な問題を含む・・・)

受験塾は試験の点数だけで満足してもいいけれど、
受験とは関係ないわたしたちはもっと広い世界をめざしていいのではないだろうか?
せっかく大きな海が広がっているのに、浜辺できれいな(死んだ)貝殻を拾っている
だけではいかにももったいなくないだろうか?

わたしが tadoku という風に書き表しはじめたのは、そういう気持ちをこめて
のことでした。多読の成功体験に縛られずに、多読の考え方を言葉を使った
活動すべてについて実験してみようではありませんか! という提案だったのです。

(あまり成功した書き表し方とは思えませんね。
かといって「をさなごのやうに」も意図は通じにくいし・・・)

最後に付け加えます。
英語の多読が日本語の読書とおなじになったら、それはそれで
最終目的地に着いたと考えていいと思います。本の中にはおっそろしく
広くて豊かな狭くて深い世界が広がっているのですから、
読書を堪能している人に無理矢理しゃべれ! 書け! などと言うつもりは
ありません。その点はぜひ誤解なきよう・・・

(ただし、音のことをよく知っていた方が読書をもっと楽しめるとは考えていますけどね)