英語多読から国語へ・・・ 続

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10年ちょっと前に普及がはじまった多読は、その後音に広がり、日本語に広がり、
スペイン語やドイツ語やフランス語やアラビア語まで試す人が出てきました。

以上はすべて「外国語の多読」ですが、「母語の多読」だってあるはず。
前便の「英語多読から国語へ・・・」で紹介した、福岡女学院中学校高等学校の
坂本さんの同僚「Emi」さんからふたたび「日本語の多読授業」の報告が届きました!

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中2「走れメロス」のさくさく読解授業をやってみて、私自身が目から鱗でした。それまでは科学的読み方研究会のやり方(構造読みと形象読み)をつかい、「サーカスの馬」わずか8ページくらいを15時間ほどかけて授業でやってみました。

これはこれで深読みの体験を生徒がしてくれておもしろがってくれましたが。
あまりにも少ない単元しかすすめないジレンマ、生徒が作品に飽きるジレンマがありました。教育大とか時間数の多い学校では良いのだと思いますが。

しかしながら、学期末は、24ページほどの「走れメロス」を、8時間でやらねばならない予定でした。なんとしてもメロスのおもしろさを生徒に伝えたいので、テーマは「走れあたし!!」と題して、細かい語句指導、読解指導はやめて、簡単な予習プリントのみを生徒に渡して授業にはいりました。

大まかな構造を生徒に示し、場面ごとにどんどん毎時間一斉に音読を続け、大きなテーマのみ毎時間扱っていました。
まずはあらすじの確認でもよい、とにかくこの作品を知って欲しい。私が深読みをせずに、欲を捨てて、まずはあらすじだけでも、テーマをかるく設定しました。さめちゃんの多読の考え方や効用を見聞きしていましたので、まあなんとかなるだろうと。

「さめちゃん」は坂本さんのハンドル名です。

4ページ一段落を一時間で終わらせる計画でした。

すると、意外にも生徒達が身を乗り出して積極的に授業に参加し,こちらの発問に意見交換をするようになっていったのです。発問も最小限に絞り込みました。私自身も細かく事にとらわれず段落を追いかけることで、主人公の心の変化がてに取るように見えてきました。

しかも最後はこの作品の主題を授業では扱わず、いきなり200字で書かせましたが、深い文章に驚きました。そしてテストでは60字で主人公の心の変化を書かせましたが、クラスの7割が満点。白紙は1割以下。しかも解説しなかった難語句も使いつつ、どんどん作文しています。

そこで、わたしははっとしました。
もともと私は高校の古典の教師です。どんなにおもしろくこまかく授業をしても、入試で自ら古文漢文を読めない生徒の多さ。「目をたてにうごかすのではなく、目を横にうごかせ」と指導してもできない生徒。

それは、教師側が大学の授業のような訓詁注釈の授業スタイルをベースにしているからだとはっきりとそのスタイルを認めました。

私は古文の設計図を書かせたり、授業にマンガを使ったり、鴻門の会では人物の顔を拡大して、それを使いながら授業をしていました。工夫しているつもりでした。しかし、やはり語句、文法をしっかりと時間をかけて教える教師でも在りました。演習では1時間1つの話、なのに、授業では短い話に5、6時間かけていました。

ああそうか。今回「走れメロス」でやったような流れで古文漢文もやってみたら、
きっともうすこし沢山の作品にであわせられて、「読むたのしさ」を生徒に伝えられるかも。そんな希望が湧きました。

四月からおそらくまた古文漢文の授業を担当すると思います。

以前、私が高校時代ラジオ講座でお世話になった林省之介先生は、四コママンガを作品の横につけて30分で一作品を教えてくださいました。
あれでぐんぐんわたしは古文が読めるようになったのを思い出しました。

多読の考え方をもって、四月から古文漢文での授業を再構築しようとおもっている昨今です。長文よんでくださり、ありがとうございます。ブログも参考にさせてくださいね。ていねいな記事に感謝しています。

日本語の古文を「多読的に」獲得できないか? というのは、多読普及当初からの
わたしの夢でした。

4月からもEmiさんにはときどき報告していただきたいものです。
よろしくお願いします。

ところで、わたしがいつも先生方に訴えている「多読授業をはじめるための2条件」
というのがあります。英語の場合は、「自分の英語はだめだと思っていること」、
もう一つは「自分の授業では生徒は英語を身につけていないと思っていること」
です。

Emiさんは2番目の条件を満たしているのだとわたしは思います。
先生というのは、どうしても自分をえらく見せなければいけないと思いがちです。
「権力の位置」に自分を置いて、授業を運営しやすくしようとするのですね。
それをやってしまうと、もう自分のことも、自分の授業のことも冷静には
見られなくなる。英語の場合はほかの教科よりも「教壇の威力」に頼ることが
多くなると、わたしは警戒していますが、できない生徒に対して、次のような
感想を持つようになる。

「わたしは自分が(英語が)できるようになった方法をそのまま使って
生徒に教えている。できるようにならないのは、生徒の努力が足りないからだ」

・・・ なんとも言えません。もうこれは先生の人柄の問題かな?

なお、英語がほかの教科よりも「教壇の威力」に頼ることが多いのは、
実は日本人の先生は全員(もちろんわたしも含めて)、教えていることに
自信が持てないからだと思います。外国語なんて、結局心底わかったとは
思えないです、わたしは。わからないことを「教える」には、自分以外の
権威に頼るしかない。それが辞書であったり、教科書であったり、文法であったり、
教壇なわけですね。

ああ、因果な商売だ・・・」

だいぶ話がずれました。Emiさん、ありがとう!