先日の「カナダのお母さん」の記事でちらっと書いた「樽 と 樽の穴」という
言葉に「ケオラエス」さんが敏感に反応して下さって、
「みんなでおしゃべり」のフォーラムに投稿してくださいました。
そこで、これは「樽の穴」についてもう一度考える機会かなと思いました・・・
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実は「樽の穴」の喩えがわたしの頭から離れたことはありません。
たくさん読んだからといって(数百万語どころか1千万語を越えるほど!)
英語の読書を楽しんだり、仕事に役立てたり、新しい世界に踏み入ったりする人
ばかりではないようです。
多読そのものがちっとも楽しめない人もたくさんいます・・・
わたしが仮定している(仮定したい)ように、多読が「をさなごのやうに」言葉を
吸収し、使うようになる道だとしたら--言い換えれば「母語の獲得と同じ道」だ
とすれば、そういう人たちが出てくる原因を説明できなければなりません。
(「なりません」というよりも「説明したい、解明したい」)
そこで、言葉を獲得することを樽に水を注ぐことに喩えるなら、
多読によって変化が現れない原因を仮に「樽の穴」と表現できると考えたわけです。
この喩えの当否は別として(喩えにはかならず限界があります、当然ながら)
先日のカナダのお母さんの例などを聞くと、「樽 と 樽の穴」の喩えは
言葉の獲得のある面をうまく表現していると思われます。
ずうっと「樽の穴」のことを考えて来たので、今では 穴の開く原因 もかなり
はっきりしてきたと思っています。それはやはり最初からの容疑者、
わたしにとっては usual suspects の中の第一容疑者 the prime suspect
「学校英語」です。
(その影響を受けた「お勉強の姿勢」とも表現できます)
要するに「学校英語に囚われていると、現実の英語がなかなか吸収しにくい、
また、使えるようにはなりにくいことが多そうだ」ということです。
(まだ容疑者段階です、「第一」ではありますが。)
これについては「どうして英語が使えない?」以来たくさん書いていますが、
その後の「確信」を含めていつかもっと長い文章を書いて説明します。
今回のこの記事では、「樽の穴」の喩えでTsubasaさんが悩んだこと、
そこからTsubasaさんはどう抜け出したか(?)という点だけ注目して下さい。
Tsubasaさんのブログから次の記事を読んで、何か感じたら、
info あとまあく tadoku.org にメールをくださるか、
twitterやfacebookで知らせて下さるか、オフ会やSkypeで聞かせてください。
楽しみにしています!
Tsubasaさんはこの記事の中で
けれど、何かが違っていたことは充分わかっていました。
お勉強の限界も感じていました。
丁度その頃想像力をフルに使って吸収していく子供たちも目の前で見て
こども達のように学んでみたいとも思っていました。
と書いています。ご自分の力を冷静に見ることができたことが
「お勉強の限界」を感じられた理由でしょう。
それにしても、学校英語や試験の成績のよい人ほど、自分を冷静に見ることが
むずかしいように見えます。いわゆる「成功体験」が邪魔をするのでしょうね。
あながち他人事とは言えないところで、汗を掻いてしまいます・・・
(何度も書きますが、今は劇薬シャドーイング軟膏ができたので樽の穴に
塩をすりこまなくても、穴をふさぐことができるようになったのではないかと
期待しつつ、実験中です。)
なお、Tsubasaさんは他の記事でも実に鋭い、しかも実体験と実例から
一歩も離れずに、とても厚みのある、「インパクト」のある記事をたくさん書いて
います。以前から注目していて、何度も引用させて下さいとお願いしたのですが、
「樽の穴」のようにわたしが最近採り上げない話題を扱っていること、また
思ったままに書きたいということで、これまでは引用を許していただけませんでした。
つい最近、書きたいことはほぼ書いたので、どうぞ引用して下さいというメールが
届きました。わたしももう一度読み直します。みなさんもぜひどうぞ。
考えるヒントがたくさんあります。
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