やさしいことばを吸収すること・・・

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「グリーン」さんから、だいぶ前にいただいていたメールです。

わたしはときどき、ごくたまに、こういう風に物忘れがあります。
わたしがメールなどになんの反応もしない場合は brain dead なのか、
単なる物忘れなのかをご判断の上、催促のメールをいただきたく・・・

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語彙について。

機能語と内容語というのは、このサイトで見てなるほど、と思いました。そんな風に考えたことはなかった。
私にとっては、イメージできるようになるか体で覚えるしか仕方ない単語(ほとんど)と、日本語-英語で1対1対応できるもの(専門用語や、物体ずばりのようなもの)という区別がありました。ちなみに1対1対応で済んでしまうものは、英和でも和英でもなんでもどんどん引いちゃいます。というかそんなモノにめぐり会えたら、楽チン、ラッキーなんて思う始末。しかーし!、そういう単語に限ってこれが覚えられないんだよなあ・・・・下手に日本語が先にきてしまうとダメなんじゃないでしょうか?

「機能語と内容語」ということばを最初に使ったのは「こども式」のブログでした。
簡単にいうと(もともとくわしくは言えないのですが)、機能語は on, in, behind とか、
which, who それに、a、an、the、before, after などのように、それ自身には意味
がなくて、ほかのことば同士の関係を決める語です。

内容語はそのほかの語、つまり table, computer, apple, dream, run, eat など
の、それ自身でなにか物事を指すことばのことです。グリーンさんの表現で言えば
物体ずばりのような語ですね。

辞書を引くとわかったような気になるのは内容語、いくら辞書を引いてもわかった気に
なれないのが機能語、という分け方もありかな?

イギリスに行っていきなり新聞を読み始め、眼で追うだけでもとにかく読み続け、あるとき5歳の女の子が読んでいた絵本にでてくる単語がわからずショックだったことがあります。それは例えば、’でこぼこ’とか’ぐちゃぐちゃ’とかの形容詞や、動物たち(牛もアヒルもいろんな呼び方がある・・)だったり、子供が最初に覚えることばなんでしょう。多読というものを最初に知ったときに、なんでまた、そんな一番難しいものをたくさん読むんだと実は思った(笑)

苦笑・・・です。
普通はそういう風に反応しないのですよ。
「えー、やさしい英語だけ読んでればいいんだ!」と喜んでくれるのですが。

私が今でも自分の英語は歪んでいると思うのは、やさしい本を一杯読まないで、仕事中心で英語を使っているからで、これはちょっとしたコンプレックスです。でも、絵本読めなくても、新聞とかなんとなくわかるようになってくるし、仕事メールなんてバンバン書けるわけですよ、悲しいことに。そういう状態にいるとある一定量がたまるとそれで事足りて、それ以上覚えようとしない、登場する単語が本当に限定されててくるので、新しい発見にお目にかかるには、別の領域に踏み込まなくてはいけません。ご飯食べながら世間話しを英語でするとか(脳を目一杯働かせてご飯を食べることはとっても大変!)観光案内してあげるとか、仕事の片手間で私的お喋りメールなんてすると、自分の英語ってなんて貧しいだろうと思う反面、それでもどうにかなっている、貧しいなりに冗談言ってウケも狙ってみるなんて、なんか嬉しい。話すことは何語とかそういうことじゃないんだな、と思う瞬間です。

「やさしいことば」って、絵本で使われているだけではありませんよね。
海外ドラマも、映画も、「仕事中心」の会話も、全部同じ種類のことばを使っています。
たしかに幼児だけが使うようなことばは仕事では出てこないかもしれませんが、
それ以外は口語であれば「やさしいことば」を使っています。

少し前に雫さんの旦那さんが「遺産」がわからなくて、というブログがありましたが、
”「遺産・遺跡」という言葉にそれぞれにぴったりの単語があるから知らないというだけですべてを諦めてしまうよう。”
という意識がまだまだ、多くの人の語彙集で語彙増強なんだと思います。これだと永遠に英語は話せない、しかも完璧を目指すともう途方にくれますね。

たくさんの人の思い込みですね、これは。
つまり「それぞれの日本語にぴったりの単語があるはずで、それを知らないから
話せない」と考えて、すべてをあきらめてしまう・・・

語彙が多いといいなあ、と今だから思うのは、自分の言葉や表現が豊かになるからであって、増えなければ増えないでどうにでもなることはなるのです。言いたいことは伝わっても、自分が本当に言いたいことはいつだって100%は言い切れていないから、これが少しでも埋まって、自分がすっきりできればそれは嬉しい。でも言い切れていない私の言いたいことをわかってもらえている、と感じるときに、人が人を理解するときは発した言葉だけじゃなくて、表情や声や、知り合いならいままでその人について感じたこと知ったことも含めて人と人は話すんだな、と思うのです。本を読んでいるときで言えば、話しの流れから察するとかそういうことと一緒でしょうか。英語で喧嘩するとお互い相手の言うことなんて聞いちゃいないし、第一、話していることは支離滅裂だし、なのにお互いその怒りだけで理解してたりするわけですよ。これは不思議ですよ。

そうだった・・・
蘊蓄オフのときにグリーンさんがこの「喧嘩のときはお互い相手の言うことなんて
聞いちゃいない」と言って、それでそれをメールでくださいとお願いしたのでした。

で、たしかにたくさん言葉を知っていると、知らないよりはいいことがあるでしょうけど、
「1000語知らなければ話してはいけない」とか、「5000語知らなければ、
大学を受けてはいけない」ということはないですよね。

言いたいこと、伝えたいことがあれば、知っていることばでとにかく伝える、
どんなにわqずかな語しか知らなくても・・・

でる単が受験に役立ったかどうか、今となっては思い出すことも出来ませんが、効率性を求める学習は言葉が言葉でなくなります。でる単が本当にテストのために効率がいいかはさておき、効率=暗記する量をどれだけ減らせるかを追求すると、日本語訳は短ければ短いほどいいし、単語置き換えできないものでも、近い日本語をテストに出るヒット率が高いものだけに限定して、できるだけ少なくして列挙して暗記させることになります。そのテストに出るヒット率というフィルターをかける時点で、もう言葉として死ぬわけです。英語に限りませんが、科学の分野でも、その手の効率性は理科嫌いの子を生み出し、自然をないがしろにする精神を生み出している(のかな?)キレイごとを言っても、受験するからにはみんな合格したいのだし、そのために出来るだけ簡単な方法を探すのは仕方ないけれど、根底にあること、本来の意味はわかって目をつぶるのとそうでないのとは、やっぱり違うと思います。英語には英語が生まれ生き続け変化していく文化の背景や歴史があります。違う言葉を話している人たちには、また別の考え方や思考や価値観があります。英語の成績が仮によくなくてもそういう意識だけでも、そう、世界は広くて人はみんな違うからいいのよ!ってことを学校で学ぶことができたなら、学校英語に価値が生まれると思うのです。こうするとテストで得だよ、なんてことだけ教えて学校でアンチョコを供給するなんて・・・アンチョコは自分で作るものだったのだぞ、昔は。。

「試験に出るヒット率というフィルターをかける時点で、もう言葉として死ぬ」
その通りです。そこをわかっていて「語彙増強」に走るのか、それとも
これでなんとかなる、TOEICの点数が上がるから、というので、必死になるのか?
オリンピックのドーピングが金と名誉をもたらすように、TOEICのドーピングも
なんらかのお金と名誉をもたらすのでしょうか?

いまはだれもかれもがドーピング用の、しかも既製品のアンチョコを後生大事に
崇めているようです。

で、最後ですが、tadokuを「急がば回れ」の英語学習法にはしたくないと私は個人的には思うのです。受験英語の効率性(?!)を無視して、楽しんでゆっくりと多読していればいつか本当に英語がわかるようになるのがtadokuではなく!別に回り道をしているわけではなく、早いとか遅いとかでもなく、そしてtadoku=やさしい本をたくさん読むこと、ですらない。tadokuはやっぱり愛か?

なんだか支離滅裂な戯言になってしまったので、不要なことろははしょって使えそうなところがあったらどうぞ、使ってください。

いえいえ、やっぱりtadokuは愛なのだろうと思います。

逆に言えば、ことばがスキルでないことは間違いない。
したがって、トレーニングやドリルや反復練習や暗記でどうなるものでもない。

そのことばの大事なところをはずさないように、大切につきあっていこうというのが
たぶんtadokuなのでしょう。

グリーンさん、ありがとうございました。遅くなりました。