管理人さんと長時間の打ち合わせをして、カテゴリーの数を増やしたのに、
大事なカテゴリーを忘れていたことに気がつきました。
「そふぃー」さんのこのメールのカテゴリーはほかのどれでもだめで、
「学校英語」しかないのに・・・
(そふぃーさんのメールを引用して、その間にわたしの感想や意見をはさみます。
それが邪魔な人は、引用部分だけを読んでください。その上でわたしの書いた
部分もお読みになるといいと思います。)
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■学校の教科書になぜ「onto」は載っていないのか最近になって気づいたことだが、学校の教科書に「onto」を見た覚えがない。なぜ「onto」は載っていないのか。「onto」が分かった今、考えてみると思い当たる節がある。それは「納得のいく日本語訳が見つからなかった」からではないかということだ。「in」は「~の中に」、「into」は「~の中へ」と済ましたものの、「on」は「~の上に」を「on the wall」で否定し「~にくっついている」という訳語を当てはめたために(学校で英語を習ったことのある人なら誰でも知っている論理)「onto」に「~の上へ」という訳語をつけられなかったのではないか。いずれにしても英語を日本語を介して理解する目的がない以上どうでもよいことだが、以後の内容に関係するためここに挙げた。以上
多読では英語を英語のまま理解するので、たしかに onto に訳語が当てはめられ
ないことはどうでもよいことですが、その事実を知ることは蘊蓄オフとおなじで、
わたしたちの頭から学校英語のお定まりを洗い流すことになると思います。
ないことはどうでもよいことですが、その事実を知ることは蘊蓄オフとおなじで、
わたしたちの頭から学校英語のお定まりを洗い流すことになると思います。
そふぃーさんも多読しながら学校英語を洗い流しているのでしょうね。
そふぃーさんはいま浪人中です。それで、学校英語を振り返るのにちょうどいい
場所にいるのかな?
場所にいるのかな?
■今年と昨年―学校の授業の有無による違い―恣意的な英語(「学校英語」はさかい先生の専売特許なので、前項をふまえ
て以下このように記す)を意識的に摂取しなくても害があるのではないか。ここでは学校の授業があった昨年とそれのない今年を例に挙げて書くことに
する。学校の授業があったとしても、一時的ならばそこから離れる時期がある。それは夏休みという長期休暇である。この間、自然な英語(恣意的な英語の対義語)のみを浴びていたため、実に快適であった。原因はよく分からないが、事実「感覚」が全く違ったのである。夏休みの終わりごろともなれば1ヶ月も恣意的な英語から離れているため、かなり英語の「リズム」が分かるようになったと自覚できるほどであった。しかし、夏休みが明けるとその快適さは失われていくばかりで、取り戻すこと
はできなかった。授業をしっかり聞いていなくてでもある。この「感覚」の変化は恣意的な英語による無意識的な被害とでも言えようか。
このことは前にも聞いていました。昨年の夏休みの終わりには学校英語に触れない
ことによる変化が感じられたと。
ことによる変化が感じられたと。
■英語を体得する過程同じペーパーバックを3度目にしてようやく読めた、という話。□ペーパーバックに挑戦(1回目)この時の英語の読み方は以下の通り。英語に1対1日本語語句を当てはめる一読してそれがうまく行かない場合は後ろから戻る確かに、試験や教科書では比較的短い文(500-1000語程度)なので何度も「丁寧」に読んで、つまりいわゆる「精読」をして時間をかけたとしても、終わり
が見えるのでどうにかなるかもしれない。だが、それが200ページを超えるペーパーバックでは絶望的であった。途中で挫折するのも無理はない。□ペーパーバックに挑戦(2回目)1回目の反省を活かす。この時の英語の読み方は以下の通り。一読して英語に1対1日本語語句を当てはめられるところだけを拾い読みするこれで読むスピードは格段に上がった。しかし、最後までページをめくったものの、内容は全くつかめなかった。
このあたりの体験談は実におもしろいですね!
こういう実験(?)を意図せずにでしょうけれど、やった人はいなかった。
こういう実験(?)を意図せずにでしょうけれど、やった人はいなかった。
□ペーパーバックに挑戦(3回目)ついに3回目の挑戦にして途中から意味が分かるようになり、ペーパーバック
が読めた。この時の英語の読み方は以下の通り。一読して英語に1対1日本語イメージを当てはめられるところだけを拾い読み
するでは、上の1行を説明しよう...と思ったが、何か核心に迫った気がして手に負えなくなりそうなので簡単に。英語に1対1日本語イメージを当てはめるとは英語に1対1日本語語句を当てはめるという操作を無意識化し、視覚化したものに過ぎない。これが世間で言われている英語を英語で理解するということではないか。
なるほど、と思います。英語とイメージのあいだに日本語が入っている場合も
あるわけですね。イメージとはいっても日本語化したあとのイメージ・・・
あるわけですね。イメージとはいっても日本語化したあとのイメージ・・・
すると、いかに真に英語を英語で理解することと離れているか分かるのではないか。そもそも恣意的な英語のみを扱っていては真に英語を英語で理解することは不可能であろう。最後に矛盾するようであるが、大事な点なので一言。ペーパーバックのような自然な英語を大量に浴びていれば、本質的ではないにしろ、ある種の英語の「感覚」は養われるだろう。でなければ、ペーパーバックのみをたくさん読めるはずはないからである。かなり飛躍があって分かりにくいかもしれませんが。
最後のところだけわかりにくかった・・・
こんど説明してください!
こんど説明してください!
で、貴重な報告をありがと!!
(「学校英語」というカテゴリーを作り忘れたことはきっとよい徴候なのでしょうね。
やっとわたしの頭が学校英語のことを離れて、tadokuをどうするかばかり
やっとわたしの頭が学校英語のことを離れて、tadokuをどうするかばかり
考えるようになった!?
そふぃーさんと一緒にわたしも離陸しようとしている!!
そふぃーさんと一緒にわたしも離陸しようとしている!!
気がつけば、「学校英語」というタグもない!!!)
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