お勉強か、楽しむか? 「不肖タドキスト」さんから!

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お勉強と楽しみの間、仕事と趣味の間、わたしたちの「エーゴ」はさまざまな両極の間で常に揺れているようであります。どんぶらこ、どんぶらこ・・・ 
で、実はみなさんよくご存じのタドキストが「不肖」と謙遜してメールを送ってくださいました。あの人かな?と見当をつけた人にはなにも賞品はありませんが、メールをくださればお教えします。(いいよね、不肖タドキストさん?)
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“不肖タドキスト”、「ちょっとピンぼけ」ばなし?
学校でそして仕事で大量のエーゴもどき(!?)、ニホンゴ(!?)もどきに触れて、「もどき?」に疲れた不肖タドキストのザレ言として聞き流し、反故してください。

ということですから、みなさんも軽く聞き流してくださいな。

「多読挫折」を読んで、思い浮かべたことを書きます。
とにかく不肖タドキストの私は、義務でエーゴを使うことに疲れている、ということです。
「義務」とは何か?―――それは、「仕事」であったり、「勉強」であったりします。
そのなかに埋もれていると、「楽しみ」のために読むことを忘れたり、最悪の場合できなくなったりします。
例えば、英文学の研究者でも、好きではじめた「研究」がやがて「義務」で論文や英文学を読むうちに純粋な「楽しみ」で読むことがなくなっている学者さんがいらっしゃるでしょう(もちろん酒井先生のことではありません)。
こどもの頃から、「義務」すなわち「勉強」のためだけでエーゴに触れていると、そこには喜びどころか、寧ろ否定的な面しか生まれません。

そう思うのですよ、わたしも。

「楽しんで読む」ことがいかに大切か―――。身にしみて思います。特に、幼少期、思春期、青年期に「楽しんで読んで、心に通過したこと」は、その後の人生の大きな支えになり、特に苦しいときや辛いときに、その記憶や感覚が人を救ってくれます。
楽しんでいるか否かは、結局自分で感じるしかありません。
「楽しむ」のは結構難しい。特に大人になればなるほど・・・。「義務」に取り囲まれていますから。
「楽しむ」ためにエーゴを読むうちに、気づかぬうちに「義務」になり、それが積み重なってくると、そこには挫折が待っている・・・。「苦しい」、「ツマズイタ」と思ったら、本当に楽しんでいるかという自己対話が必要です。自己対話、これも結構苦しい。自己否定がありますから。

なんだか身につまされる、真実の響きがありますね・・・ 
きっと「不肖タドキスト」さんご自身がつらい思いをされた、そしてそれが
「後で実のなる」つらい経験だったということでしょうね。

だからこそ、だからこそ、「こども」には「楽しみ」を見出してほしいと思うのです。
ここは多読の広場ですから、何かの縁で多読あるいはエーゴと出遭った「こども」には楽しんでエーゴと触れて欲しいと思うのです(まあ、エーゴに限ったことではありませんが)。
「義務」でエーゴに触れる際、いつも声高に言われたのが、「よいエーブンをたくさん読みなさい!」ということです。いまだにわからないことです。「よいエーブンって何?」、そう思って二十年以上経ちますが、いまだに答えは出ません。まあ、この不肖タドキストが今、思うのは「自分が壊れるような興奮を与えるエーブン」ということで、こう思うに至ったのは多読のおかげ(?)かなと思っています。

これもまた痛烈かつ痛切な定義ですね!
これはすごいですよ!!

そして、私の捻じ曲がりエーゴ、このエーゴもどきも、もしかしたらエーゴなんだと思うようにして慰めるしかありません。
ロバート・キャパの本を気づかぬうちに古本屋に出し、自分にアイソがつきた不肖タドキストより

最後もまた痛切・・・
不肖タドキストさんの心の揺れはどうもただならぬもので、何かを生まずには置かないほどのものと見ました。ぜひその動揺に身を任せて、新しい自分を発見されますよう・・・
なんだか、怪しくなってきたので、この辺で・・・
ありがとー、不肖タドキストさん!