そもそも多読はだれかの言うとおりに学んで、だれかの真似をして、言葉を学習するのではありません。
だれかの言うことではなく、自分の胸にたずねて、だれの受け売りでもない答を得て、
自分だけの道を選んでいくものです。
そのことで、二つの記事を書きます。一つは多読がこれまでの「学習」と根本的にどうちがうか。もう一つは次回の記事、すなはち最後の記事になりますが、自分の足で立つ人たちのことを書きます。
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先ごろ「多読指導」か「多読支援」かという区別がブログや「支援する人」のメーリング・リストで話題になりました。あれは実に本質的な提案だった!
(提案したのは「ひめ」さんという高校の先生で、専門は日
本語教育です。日本語教育の方では「指導」でなくて「支
援」という言葉がしばらく前から使われているそうな。ひめ
さんは「英語は遅れている」と思っていたそうな・・・)
学校英語や学習法と大きく違うところはこの点にもあるだろうと思います。
わたしは「指導」という言葉に違和感は感じていたものの、深くは考えずに
「まっいーか」と「指導」で済ませてきたのでした。本質的な課題であることを理解していなかったのですね。
もう一度、我に返って思惟するに・・・
学校英語や学習法のめざすところは
「指導者」がいて、指導者の提示したレールの上を「学習者」は
できるだけ速く、できるだけ遠くまで走る
(短い時間で点数をたくさん取る)
ことでした。
それに対して多読が明らかにしたことは
「指導者はいらない」、「レールもない」
ということでした。
多読三原則という端的で心に残りやすい言葉だけを胸に、みんな自分の道を切り開いていきます。最近の学校改革、大学改革の標語のようになった「自律的学習者」というやつですね。
学校英語や学習法は一斉授業で、生徒の好みや個性は無視されてシラバス(授業日程表)が決められています。教室では毎週何を学ぶか決められていて、通信教育などであれば、学習者の進み具合に関係なく教材が送りつけられてきます。
さらに、みんな同じレールの上を一斉に走るので、自然とほかの人と自分をくらべ、競争になっていきます。すべての一斉授業は指導者(先生や教科書、指導要領、シラバス、試験)の意のままに優劣が決められ、トップの数人以外はたいてい屈辱感や挫折感を抱きます。
(なお、大学のサーバーにあるわたしのシラバスは世を忍ぶ仮の姿と
ご理解ください。あの通りに進めたことは一度もない・・・
進める気もない。そもそも、「自律的学習者」と「シラバス」は
相矛盾するものであります。)
多読では、道が違うのだから、速い、遅いは比べようがない。一人一人が「昨日の自分」とくらべて進歩を自覚するだけです。試験を受ける必要などない!
(わざわざ道をはずれて試験を受けてみる人もいますが、試験の結果で
自分の道がぶれることがなければ、まあ、害は少ないでしょう。)
と、まあ、上に書いたことはすべてみなさんが教えてくれたことです。わたしは本当に多読三原則を言いだし、やさしい本を提案しただけです。
多読三原則はその後も修正の必要はありませんでしたが(今後あるかもしれません)、やさしい本についてはわたしが提案した本よりもはるかに多くの本をみなさんが見つけてくれました。
そして、さまざまな道とさまざまな進み具合と、さまざまな停滞とさまざまな復活があることを報告してくれました。そこから、先生というものはいらないのだという、学校教育の破壊につながりかねない大きな課題を、みなさんはくれたのですが、それは最後の記事にしましょう。
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