この話題の「その六」と「その七」の記事は「語」を取り上げました。
「その七」の中でちらっと書いたように、「語」や「句」や「文」や「文法」といった区別は実際に使われる言葉では必ずしも分明ではありません。文法学者が話を簡単にするために、議論できる形にするために無理矢理作った区別といっていいでしょう。しかしそのあたりの話題は多読の驚くべき到達地点の一つとして別に項を立てます。
いまは語と文法ははっきり分かれたものであるかのように仮定して、
文法の獲得についても、多読がどれほどこれまでの常識を越えるものかをメモしておきましょう。
(考えてみると、こうして取り上げる「多読の到達点」の一つ一つが、
何十何百という博士論文の種になりますね。えらいこっちゃ・・・!)
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文法についても、もちろん(もちろん?)語に関する知識とおなじように、
意識的に勉強する必要はなさそうだということが、たくさんの人が多読の様子を報告してくださったおかげで、わかってきたように思います。
これも衝撃的な事実と言っていいでしょう・・・
なにしろ引っ越しが迫っているので、二つだけ例を挙げます。
* should have been の衝撃
これはまったく衝撃的な事実で、しかも多読普及初期に起きたことだったので、
わたしはどう捉えていいかわからなかったほどでした。一言で言えば、学校では過去形も習っていない中学1年生が It should have been you. という文の意味を「正しく」理解していたのです。
これについてはどうしてそういうことになったかも含めて、「教室で読む100万語」と11月に出る本に書いてありますから、本屋さんでのぞいてください。物語の中に出てくるからこそ理解できるのだとわたしはいま考えています。たくさんの物語の中で似た「文法事項」に出会うことで、語の場合とおなじように少しずつその役割が明確になるのでしょう。
* as の衝撃
should have been の衝撃以降、たくさんの多読愛好者からおなじような発見を数限りなく聞きましたが、ごく最近の大きな衝撃を二つ目として紹介しましょう。
5年ほど多読をしているある人(まったくのゼロからはじめた大人と言っていいでしょう)がわたしに「asって、asの前と後ろが同時に起きているっていうことを表しているんじゃないですか」と言ったのです。
わずか5年ですよ! (実際にはその1年前に「asってあるでしょう?」とわたしにおなじ話をしようとしたら、わたしは「そういうことは考えなくていい!」と聞くことを拒否したそうなので、たった4年かもしれません!!)
わたしにとって衝撃だったのは、asについてはわたしもおなじ理解に10年か15年くらい前に達していたからです。わたしの場合、10年ほど前ということは英語を習いはじめて30年くらいたったころということですね。幼くして文法少年、長じて辞書青年というくらい熱心に英語のことを考えてきたわたしが40年かかった認識に、ゼロからはじめた多読実践者は4年か5年で到達する・・・!
もう言葉がありません・・・ ということで、次の話題に行きましょう。
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