何かやり方を間違えているようで、この件名の「二」を消してしまったようです。
でも、「二」には、英語らしい音が出るまでの時間数など書いてあって、
「人と比べる」ことを誘いかねなかったので、消えてよかったとします。
「二」で言いたかったことは要するに「発音練習」はしない方がいいですよ、
ということでした。
で、その発音練習のことです・・・
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多読を広めはじめて7年半ですか、おもへばとほくへきたもんですが、
みんさんが多読から多聴へ、「書く」へ、「話す」へと道をつけてくださって、
その様子を見ていると、多読三原則は形を変えて同じだなと思います。
わかりにくかったですね。つまり、多読三原則を少し変えると多聴三原則になり、「たくさん書く三原則」になり、「たくさん話す三下足」になるようなのです。
まだわかりにくいですか? 要するに、言葉の活動と言葉の獲得方法は
「聞く、話す、読む、書く」などと4技能に分かれるわけではなく、
その原理(?)は共通していると言うことなのでしょうね。
で、たとえば多読と多聴をくらべると、多読三原則の第一「辞書は捨てる」に当たるのは多聴三原則(仮)の「一つ一つの音や単語を聞き取ろうとしない」に当たります。このことは「ぴ~ママ」さんが「映画を英語字幕で見るのは多読で辞書を引くのと同じだ」と喝破したことにつながります。(ぴ~ママさんの指摘はまさに目から鱗、じゃなかった耳から豆が落ちる(Captain Corelli’s Mandolinの最初に出てきます。若いときから難聴だと思っていたのが、実はこどものころに耳に豆が入ったせいだった!)思いがしたものです。
それで、この半年ほどの間に、多読三原則を変形することで、言葉のあらゆる面についてこどものように獲得する道が見えてきたと思っているわけです。
ながーい前置きでしたが、発音練習はつまるところ「極端形」を練習するだけ
のことであり、それは英単語と訳語を一対一対応させて覚えることと同じだと
言いたかったわけであります・・・
わかりましょうかね、こんな書き方で?
みなさんのご意見、感想、質問をお待ちします。
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