あまりに長かった・・・と反省したそうです、せにょーるさん。
それで、新版をそのまま掲載します。
わたしのコメントは後ほど・・・
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学習法に関して
せにょーること鈴木です。酒井先生にいきなり超長文メールを送ってしまい全文掲載いただいたのですが、自分で読んでみて恥ずかしくなるくらい長いので短くしました。(それでも長い。)
「ほめず、教えず、助言せず」については、是非「kidsコーチング」の本をお読みください。いづこさんやパラオさんと全く同じことを著者も言ってます。
「学習」ということですが、「こども式」が目指す外国語習得には必要ないと考えます。NEOさんのおっしゃる「作法・表現力」は「経験」で身につくものだと私は考えています。
結局、「ドラちゃん」氏の、>『伝えるために書く』っていう事を繰り返さないと、自分のWriting styleは出来てこない気がします。誰かに伝えるために書いて、フィードバックをもらって、また書いて…
に全く同感です。ただし「フィードバック」は「訂正」ではなく、「返事」だと思います。返事を読んで、「伝わっていないな。」と感じれば再度違う表現で伝えようとするでしょう。この積み重ねで、「表現力・作法」だけでなく”accuracy”も身につくはずですよね。これ「話す」に関しても全く同様です。
「学習も必要だ」と考えるみなさんは、「正確さ, accuracy」を意識しているのだと思います。しかし、「正確さ」って何でしょうか。例えば今私が書いているこの文章ですが、誰も「間違った日本語」とは思わないでしょう。
学校教育で英語を「学習させられた」私たちは、「テストで○がもらえる=正確」と思ってます。学校で×をもらったトラウマから、常に自分の英語が「正確でない」のではないかと不安になっている。ネイティブに「私の英語正しい?」と聞いてしまう。聞かれた方は「通じているではないか。何が不足なのだ?(細かいまちがいなど、聞かないでくれ!)」となる。
日本人はobsessed with accuracyなんです。ただちに自分を解放すべきですね(笑)。学校英語のaccuracyがいかにでたらめなものかは『どうして英語が使えない』という本を読めばわかります(笑)。
生徒にもよく言うのですが、「英語(外国語)が話せる人」というのは、「自分は話せると心から思っている人」のことだと思います。結局「心」の問題。学校英語の呪縛から自らを解放すれば多読を実践しているみなさんはその瞬間から「正しい英語を話せる・書ける」と思いますよ。
あとは、前述した「経験」で「作法・表現・正確さ」を伸ばしていけばいいのです。いや伸ばすのではなく、ほっといても伸びますよ。
結局、書くのも話すのもこども式。学習なんてしないで、多話・多書ですよ。必要がある人は、様々なマニュアル本をちら見すればいい。(「正しい手紙の書き方」とかです。)Grammar in Useも試験目当ての「ドーピング」以外には必要ないと思うのですが。
次は「学校での英語」について。本音は、外国語習得は公教育の場から追い出したい。「授業」で教え「テスト」で評価するものではないと思います。
しかし現実にはそういうわけにはいかない。そこはわれわれ教員がうまい「落としどころ」を見つけてできるだけ「英語ができるようになりたい」「英語が楽しい」と思っている人を苦しめないよう支援していけばよい、と私は考えています。また「英語なんて知るか!」という人に、少しでも英語に近づくきっかけを与えられればよい、と。
評価ということについての話もありましたので、私の考えを少し述べます。授業で多読を取り入れる場合は「一切評価しない」のが鉄則だと思います。(スギソーは「多読」のみ選択科目ですので「評価なし」というわけにはいかないでしょうね。ひめはどうするのか!)
しかし科目の評定はつけなければいけません。私は今まで生徒には
5⇒君はたいしたもんだ
4⇒よしよし
3⇒まあいいんじゃないの。
2⇒お互い縁がなかったということで。
1⇒世の中甘く見るんじゃねえ。
というように説明しています。普通は「テストの点が何割、小テストが何割、課題が何割」というようにして、エクセルかなんかに点数を入力して上から並び替えて評定をつけるのですが、私は「数値」はあくまで参考資料で、最後には生徒の名前を見て顔を思い浮かべ、「えーい!」とつけます。
不真面目で不謹慎に見えるかも知れませんが、私はこのやり方がもっとも誠意あるやり方だと思います。深刻な苦情を受けたこともありません。高校レベルになれば、結局は信頼関係だと思います。信頼関係がもてない先生につけられた2と、信頼関係をもってる先生につけられた2では意味が違います。評価方法よりも信頼関係ががよほど重要だと思います。「成績は2だったけど、この授業楽しかったよ。」と言ってもらえれば教師冥利につきるのでは。
しかし、中学の先生ならこんなことはできないでしょう。高校入試に「内申」が絡んでくるからです。(高校も「大学推薦入試」には絡んできますが...)これは文科省や教育委員会が考え出した悪の中でも特に悪質なものです。いち早く撤廃すべきです。この点はいくらでも言いたいことがあります。観点別評価なんて悲惨ですよ。「興味・関心」まで他人に評価されてしまうんですから。こんな恐ろしいことが白昼堂々と全国で行われているのです。
以下も最初は長々と書きましたがとりあえず今回は要点のみで。
1.酒井先生は公教育は成立しなくてよいとのことでしたが、私は「場の提供」という意味では公教育は必要だと考えています。
2.教育を文科省をトップとする「教育行政」から、親や教師のもとに取り戻さねばならない。教育が「国家権力に都合のよい『国民』養成」になってしまいつつある現状に教師も親も立ち向かわねばならない!
ということですね。
で、いろいろ考えると、「こども式は日本の教育を変える!」と真剣に思ってるのです。
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