やはり書いてしまおうと思います。
薀蓄に属することで、ひょっとしたらこの記事を読んで、
文法に走る人が出てくるかもしれませんが、
書いてしまうことで、(皮肉なことに)文法の呪縛を逃れる人のほうが
多いような気がするのです。
いわゆる文法用語がどんどん出てきます。
「外国語は基本的な文法からはじめなければならない」
という呪縛を逃れたばかりの人は読まないでください。
すっかり逃れた人、逆にどうしても逃れられない人は
ぜひ読んでください。
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この話題の前便で、「ある語について」とか「ある役割」とか、
思わせぶりなことばかり書いて、申し訳ありませんでした。
「ある語」とは as です。
as はとてもよく見ます。
ということは大事な役目を担っているということです。
as は英語の先生の間では「多義語?」として有名です。
ある、じゃなかった旺文社のレクシス英和辞典では、
こんな小さな語(二文字)に2ページ半も割いています。
品詞も前置詞、接続詞、副詞、代名詞と四つもあります。
その辞書が挙げている訳語を並べると・・・
(ちゃんと読まなくていいですよ。ただ、その数の多さと
一貫性のなさにめまいを感じてくれたら、それで結構)
接続詞として:
? ・・・に比べて
? ・・・も、たった・・・
? ・・・のとおりに、・・・のように
? ・・・するときに、・・・しながら
? ・・・するにつれて、・・・するにしたがって
? ・・・(する)のだが、・・・だから
? ・・・(な)ので、・・・だから
? ・・・だけれども
? ・・・
前置詞として:
? ・・・として(の)
? ・・・(である)と
? ・・・
副詞として:
? 同じ程度に、同じくらいに
代名詞として:
? ・・・のような
? ・・・だが
と、なっています。ほかの英和辞典でも、ほとんどおなじようなものです。
つまり、どれも「私の考える核」を捉えていない・・・
ところが前便の「ある人」は
「asって、要するにasの前と後が同時に起きているっていうことですよね?」
とのたもうた!
これがasの役割として「正しいかどうか」はとりあえずおいておきます。
とにかくわたしの感じ方とおなじです。わたしの言い方では「asの前後は同時進行」
になりますが。
けれどもわたしにとって最大の関心は、この人の感じ方が、
わたしがここ10年ほど感じていることと同じだという点です。
この人が5年間に得た「感じ」とわたしが40年くらいかけて得た「感じ」が
同じだという点です。
ゼロからはじめるというのは、これほど強烈なものなのか・・・ という点です。
なんと8倍の速さでわたしと同じ認識に到達した!
もちろんわたしが普通の人の8倍「とろい」ということもありえますが、
asの役割は同時進行を表すことと表現している文法書は見たことがないので、
そういう文法書を書いた人は少なくともぼくと同じくらいとろいことになります。
(もっともそれは同時進行が本当にasの役割だとしてのことです。)
文法書でも英和辞典でも、私の見た限りでは、asの役割を品詞ごとにわけて
記述してあるだけで、asそのものの基本的な役割は書いてありません。
(実はわたしは学校英文法の品詞という考え方には強い疑問を
持っていますが、それはまたいつか話題にしましょう。
asに罪はない! という気がします。なぜ、ひとつの綴りの
asがいろいろな品詞に分けて説明されなければならないのか?)
さて、この人の例は英和辞典の限界だけでなく、文法そのものの無力さと、
文法学習の空しさ、邪魔さ加減(?)も示唆しているようにわたしには思えます。
文法に関する薀蓄は茶飲み話であって、少なくとも今のところは建設的なものではないかもしれません。しかもただの茶飲み話にしては副作用が強い! これからも英語の薀蓄は慎重に扱って行きたいものだと、つくづく思います。
ではなぜ薀蓄オフを続けているのか?
それは今後少しずつ明らかになっていくのではないかと考えています。
なにはともあれ、わたしの失われた40年を返せー!
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