NATSUさんは多読開始まもなく「100%理解」の足枷を脱ぎ捨てたようですが、
好みの本はなんとかすみずみまで理解したいと思うそうです。
(というのはごく自然な成り行きですね)
そこで編み出した方法とは?!
酒井先生、こんばんは。
アトムさんの「目に鱗」が入っている状態という表現にひかれて、書いています。
私は多読を始める前は簡単な本も読めませんでしたが、それは「100%理解」の呪縛そのものでした。少しでもわからない部分があると、その部分がトゲでもささっているかのように気になって、読み続けられなかったという感じです。
多読を始めてわりとすぐの頃から「100%わからなくてもとばしていいんだ」と知っただけでこの呪縛が解けて、気楽に読むことができるようになりました。
「100%理解」の呪縛が解けたといっても、目に鱗が入っているような感じで読んでいることが多く、もどかしさは常にあります。
ちょっとばかし曇った眼鏡かなんかかけて景色を見ているような感じです。
酒井先生やアトムさんでさえ、今もぼんやりのもどかしさを抱えながら読んでられるのか?!!と思うと目からウロコです。
これがあたりまえの状態なのかもしれないということですね。
キリンすぎてすらすらっと流れに乗れないものは、自然にストップしてしまうので投げています。
そうでない場合、目に鱗が入っていても、眼鏡がくもっていても、流れに乗ってしまえれば読めます。
で、読み終わった時点で、私の場合、ぼんやーりしていても「あーおもしろかった!」で気がすんでしまう本が多いですが、時には「すっきりくっきり」眼鏡を拭かないと気がすまないような気持ちになる本というのもあります。
語数の多い長編児童書など、読み応えのあるもの、愛を感じてしまったものなどです。
どうやってそのもどかしさをやっつけているか、告白します。
読み終わったあとで、図書館で邦訳をかりて読んでいます。
変形シマウマ読みです。
不思議なことに、あとから邦訳で読み直していると、「意外にくっきり読めていたんだなー」と思うことが多いです。
そして邦訳を読み終わったら、後に残っているのは英語でも日本語でもなく「お話」が残っているだけで、これで私は気がすんでいます。
おー、これはこれで一つの境地か!?
書きながら気がついてきましたが、多読4年目に入って、英語をどうこうしたいという欲が限りなく薄くなってきて、ただただ楽しく本を読めればいいやという心境になってきてるような・・・・。
おー、やっぱり「境地」だ!
(シャドウイングをやるときだけ、英語をなんとかしたいという煩悩が生じます・・・)
でもないか・・・
結局、何が言いたかったのか・・・。
そうです、邦訳で読み直す作戦は意外にいいです。
英語の勉強としていいのかどうかわからないけど、精神衛生上はよろしいです。
でも、訳者さんによっては全然イメージがちがうものになっていることもあって、それはそれでまた精神衛生上よろしくないのですが。
たぶんそのうち、邦訳で読み直さなくても気が済むようになっていくんじゃないかと感じています。
そう、残念ながら、それより早く、邦訳は雰囲気が違うとか、話し方が甘ったるいとか(こわいとか)、邦訳に対して不満が出てきて「読み直せなくなる」かもしれません。でも、邦訳の方が自分が英語から受け取った物語より引き込まれるということが起きるかもしれませんね。
いずれにせよ、「変形シマウマ読み」だいさんせー! だいありがとー!!
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