「子連れ」さんが指摘してくださったことがやっと消化できてきました。それで、すこしはわかりやすい説明ができるかなと・・・
おとといの木曜日に、Hanahou(横浜絵本の会)があり、ウンチク好きのパピイさんに、「さかいさん、一人称と三人称の話はわかりにくくて・・・」と注文をつけられました。面目ない。
でも、パピイさんがわかりにくくて読む気がしないなら、害毒は流していないかもしれないと安心もします。この「(毒)一人称と三人称」シリーズはわたしのメモ代わりと言うことにしましょうか?
でも、ちょっとだけわたしが何にワクワクしているか、その理由はみなさんにもわかってもらいたいような気もします。そこで、言葉オタクのみなさんの中でも、いまわたしとおなじような志向のある人へ・・・
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子連れさんの指摘どおり、
* 山岡さんの質問にあった「アメリカ独立宣言」の一人称と三人称の問題と、
*「ある人」が指摘してくださった「さかいの寄り添い試訳」の問題は
ちがいますね。
福沢諭吉の訳もわたしの試訳も 三人称を一人称のように訳しているという点はおなじなのですが・・・ でも大きな違いがあります。
一言でいえば、独立宣言には登場人物がいません。語り手がtheir coloniesと三人称で
表した州を福沢諭吉は「我が諸州」と一人称(?)で訳したことが焦点でした。
(日本語に人称はあるのかな?)
一方「ある人」が指摘してくれた「さよなら英文法!」の32ページでは、she、herと三人称で表された登場人物の気持ちや考えを試訳が「わたし(女探偵)」と訳した点に「寄り添いすぎではないだろうか?」と、疑問が呈されたのでした。「みちる」さんの掲示板への投稿もそういうことだったと思います。
それで、わたしの試訳の場合は「直接話法、間接話法、中間話法(描出話法?)」という区別に沿って話すことができますが、福沢訳の「我が諸州」は話法の問題ではないことになります。
根を探るとわたしの試訳と福沢諭吉の「我が諸州」はおなじではないかという気がしますが、いまは「話法」の問題だけを採り上げます。
「話法」というのはおおざっぱに言えば「だれの語った言葉か」という区別です。
*登場人物の言葉をそのまま ‘・・・’ で表現すれば直接話法、
*登場人物の言葉を語り手の立場から引用符 ‘ ’ をつけずに表現すれば間接話法、
*両方を混ぜたかのように ‘ ’ はないのに、登場人物の言葉が一部そのまま
入っているのを中間話法(描出話法)と言います。
子連れさんによると
江川『英文法解説』をみると,
「直接話法とも間接話法ともつかない中間的な話法で,小説や物語などでときどき使われる.」
「作者が作品中の人物の気持ちの動きを第三者的な立場から代弁しているもので,心理描写の手法として使われる.」
だそうですが、わたしがこれからしばらくの間考えてみたいのは、(みなさんにはお勧めしません! 言葉のオタク地獄にはまります!!)
* はたして「ときどき」使われるものなのか? 実はもっと頻繁に使われるのではないか? また、第三者的な立場からの描写なのか、それとも関口存男さんのいう「扮役的」立場であって、いわば第一者のように親密な描写なのか?
* 日本の翻訳は「中間話法」をどう扱ってきたのか?
ということです。
つまりわたしは英語の he、she をどう翻訳するかという問題について、明治にさかのぼってどう訳されてきた探りたいと思います。(相当時間はかかるはず)
そして、中間話法は「ときどき」どころかかなり頻繁に使われているのではないか? he を「彼」、she を「彼女」と訳してしまうことで、原文の持っていた距離を遠ざけてしまったのではないか、ということを調べてみようと思います。
さて、どうなるか・・・ 楽しみです!
ところで、別の「ある人」から次のようなメールをもらいました。
ある人のおっしゃるとおりなので、わたしが「間者猫」さんのブログの記事を引用して検討したことをちょっと修正しておこうと思います。
「人称代名詞は直前の名詞を受ける」って本当でしょうか?私はずっと昔からそう信じていましたが、−−おそらく中学2〜3年でかなりみっちり文法授業があったから、そのとき習ったのかと思います−−多読を始めてから、違うんじゃないかと思い始めました。直前の文章に、固有名詞が2つあったとき、主語になっている方、つまりheやsheから見てひとつ手前の固有名詞を受けているとしか考えられないことがあったからです。例によってメモを取らないので、どこで見たか確認できないのですが...
「直前の名詞を受ける」とわたし自身が英文和訳の授業で言っていたのは10年ほど前までのことです。そのときのことをそのまま間者猫さんの意見に添えましたが、ここ5年ほどは実はすこし意見を変えました。(それにしても、間者猫さんがわたしの10分の1くらいの時間でわたしが10年前まで持っていた認識に達したことは間違いないので、あの記事自体の意味は修正の必要はありません、念のため。)
いま考えているのは
頭の中に残っている(数の一致する)人を指す
というものです。上のある人のご指摘の通り、その文近辺の焦点が「直前の人」を一つ飛び越えることはよくあります。もっとも、「頭に残っている人」が直前に出てくる人ということはもっとよくあることなので、試験対策の英文和訳では「直前の(数の一致する人を指す」と思っていて、十中八九まちがいないでしょう。「一つ飛び越す」文章を訳せという問題はまず出ないと思われます。
なお、和訳問題ではない場合は、人称代名詞がどの人を指すかはまったく考えなくていいでしょう。前から順番に多読的に納得していけば、当然「頭に残っている人」を指していることは了解できているはずですから・・・
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