多読三原則ができる前に「多読」をはじめた人が何人かいます。H大学でわたしの多読クラスに参加していたひまわりさんもその一人で、ほかには電気通信大学でいまの形の多読が誕生するのを見ていた「パッチ」さんもそうです。
で、そういう人たちはいまのようにOxford Reading TreeやLongman Literacy Landのないところから多読をはじめたので大変だったなあ・・・と思っていたのですが、そうでもなかったらしい。ひまわりさんのメールを、三原則以前お多読の姿を思い出しながら、引用します。
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ブログでYLとかレールとかのことを読んでいるうちに、YLができるよりも先にわたしが多読と出会うことができたのは、とても幸せなことだったのだなあと、思うようになりました。わたしは根がとてもまじめだから、もしYLとか語数カウントとかの形ができあがっている状態の多読に、初めて出会って多読を始めていたとしたら、YLや語数にもっともっと強く縛られ、しかめつらして必死になって、多読していたのかも知れないと思うからです。
あ、そうですね! わたしが語数やYLの見直しを真剣に考えはじめたのは、「安易に」語数やYLをレールや階段だと思う人たちが出てきたからだったのですが、そういえば「まじめな人々」にとっても、語数やYLは自由を奪うものになりかねませんね。
わたしが最初に多読に出会った頃は、まだ、虹色の色分けすらなかったから、手に取った本を開いてみて、読めて楽しければ読むし、読めなかったり、楽しくなかったりすれば、読まない。ただそれだけのことでした。(ぴ〜ママさんがメールの最後で書いておられる「もし、自由に手にとって選べる環境があるのなら」の多読の理想のあり方(?)と、ほぼ同じですね)
ほんとだ! 潤沢に本のある環境があれば、レベル分けなんかいらないですね。
ぱらっと見て、引き込まれたら読む、引き込まれなかったらぽいと投げて次の本に手を出す・・・
あの頃、手にすることのできる本の数は、今ほど多くはなかったけれど(ときどき本の顔ぶれが替わる二つの段ボール箱。あの箱の中身は、さかぽんがわたしたちにあわせて入れ替えてくれていたの?)、それでも、YLとにらめっこして本を選ぶ多読より、ずっと自由で、大胆で、おおらかだったように思います。
原っぱを、ぷらぷらと、お散歩しているような気楽さで、本を選んでいた。時には、勇敢な開拓者気取りで本を漁り、ほんとは歯が立たないような本を、難しいとは気づかないまま好奇心にまかせてガシガシと読み進めてみたり(で、歯が折れそうになったり(笑))。自分の手で掘り当てた本が、いい本だったりすると(たとえば、Tom’s Midnight Gardenに出会ったときの、あの驚き!あのよろこび!!)、宝物を掘り当てたみたいに、ものすごく、うれしくて。
数ある(でも限りもある)本の中から、今の自分のために書かれた一冊を、探し出す。本を選ぶ嗅覚とか、勘とかいうものが、自由でおおらかなあの段ボール箱二つの多読の中で、育てられ、鍛えられたように、思います。
うーん、たくましい!
それこそ自分で道を切り開くということか・・・
その多読を離れて10年後、今度は、語数カウントやYLなど便利なものがいろいろ加わった新しい多読を、わたしも体験しました。それはそれでとてもよかった。なんと言っても語数カウントやYLなどの目安や取っ掛かりがあると、自分ひとりで多読を始めても、また、ひとりで本を購入しながらの多読でも、なんとか多読をすすめていくことができる(実際は掲示板などでのたくさんの助けを得ていたので「ひとりぼっち」ではなかったけれど)。これは、実に、ありがたいことでした。
自分ひとりでする多読(本を自由に手に取れない環境での多読)を始めてしばらくの間、YLはわたしにとって「かなり便利な本選びの目安」であり、また、語数の記録にYLの記録を付記することで「その時々の自分の多読の状態を把握するためのよいバロメータ」を得ることにもなりました。(ただ、わたしは多読の感覚が人とはだいぶずれているようなので、本選びの際、YLがあてにならないことも結構あった。わたし「YL音痴」だなあとよく思ったよ)
新しい多読との出会いから4年が過ぎ、400万語を過ぎた頃、多読に、躓きました。なんだか知らないが、読むのも、読まないのも、どちらもものすごく苦しくて、悶々としていた。それがあまりにくるしかったので、泣きながら、「語数を数える多読はもうやめよう」と思いました。そして、自分の「たのしい」「心地よい」という感覚以外は、一切、頼りにしないことにしました。そしたら、とても楽になった。わたしの多読が、生まれ変わりました。
うーん、これは痛切ですねえ・・・
YLや語数が時には非常な悪さをする・・・
でも、初期には助けられることが多い・・・
世の中すべて矛盾を含むとこの頃思いますが、多読にもそうやって矛盾が内蔵されているんですねえ・・・
そのときから今までさらに400万語ほど読みました(結局、語数については、今でも、多読の体調管理程度には大雑把にですが把握しているわけです)。今は、本選びにも、YLはほとんど使っていません。最近の本の選び方は、好きな作家の本は、読む。初めて出会う作家さんの本も、文章の雰囲気や内容が好きだったら、読む。たまたま本の扉を開いて読んでみたら、読めて、楽しかったから、読む。そんな感じ。ぐるりと回って(?)、昔のおおらかな多読に、近くなった感じかな・・・
おー、それはよかった! おおらかな多読−−言い得て妙です!!
そして最近は、ありがたいことにようやく少し自分の好みがわかってきたような気がしています。そして、どのあたりに自分の好きな本が眠っていそうか、少し見当がつくようにもなってきた気もする(まだまだだけど)。これからは、大好きな作家が、もう一人二人と、増えるようならいいなあと、そしてゆくゆくは、人にはあまり知られていないけれど自分では大好きな作家さんというのを、みつけだせるようになれたらたのしいだろうなあと、思います。
「快読100万語!」のころから、それが多読の最終目的と書いております。
ぜひひまわりさんだけの(?)作家を見つけてください。
レールをはずれるということ、YLのこと、語数・冊数・ページ数のこと、いろいろ、思い巡らせています。また、メールします。それじゃあ、またね・・・
はいはい、またね!
ひまわりさん、ありがとー!!
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