ぽつぽつと思い出しております−−この6年有半でわかってきたこと・・・
何十という学校や大学を巡るうちに、そうした機関が多読を支援するにはいくつかの条件を満たしていないとむずかしいようだ、ということが次第にわかってきました。もちろん絶対的な条件ではありません。そうした条件を満たしていなくてもうまくいった例も挙げます。
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* 多読支援をはじめる先生が満たしていた方がよさそうな条件二つ:
1.ご自身で100万語分くらいやさしい本を読んでいること
2.生徒、学生一人一人の顔を見られること
これは説明の必要はないでしょう。この二条件を二つながら満たしていない人で支援できたケースは思い浮かびません。やはり本を推薦できること、一人一人と信頼関係を作ること、その二つなしには支援はできないのだと思われます。
* 多読授業に踏み切る先生が満たしている条件二つ:
1.ご自分の英語はだめだと思っていること
2.ご自分のいままでの英語の授業では生徒、学生が英語を獲得していないと考えていること
これはおもしろい条件でしょう? 1も2も、英語の先生が認めるにはなかなかむずかしいものです。1と2のむずかしさを説明します。
英語の先生は「自分は英語が得意だ」と思うから先生になったわけで、1はそういう先生は多読に踏み切れないことを示唆しています。となると、英語国のネイティブ・スピーカーが三原則を利用した多読に関心を示さない理由がよくわかります。ネイティブ・スピーカーの先生は当然「自分は英語が得意だ」と思っているので、多読のようにいままでとはまったくちがうやり方にはなかなか踏み切れません。
(そういう英語母語話者の先生たちには、わたしは「日本語の読書はできますか?」
と尋ねます。これまでのところ、日本語の読書のできるネイティブ・スピーカーの
先生は三原則多読に大いに理解を示しました。日本語で読書のできない人は
三原則多読には興味をしめさない傾向があるようです。サンプル数は多くありませ
ん。せいぜい10人程度か?)
ああ、メモの範囲を超えていますが、この話題は書いたことがないので、少しくわしく書くことを許してください。
で、2ですが、1と関係します。1の条件に当てはまらない先生、つまり「自分は英語が得意だ」と考えている先生は、「自分のやってきたやり方」を教えることに痛痒を感じません。したがって、多読には関心を示さないのだと思われます。
そうした先生の様子を見ていると、どう考えているかは想像がつきます。「わたしは辞書と文法で英語ができるようになった。だから辞書と文法で英語を教える。それで生徒・学生が英語ができるようにならないとしたら、彼らがわたしとおなじくらいの努力をしないからだ」と考えるようです。大学で何十人という英語の先生を見てきましたが、ほぼ全員このタイプです。悪い人たちではありません。中には非常に熱心で、学生思いで、なんとか自分がやったのとおなじくらいの努力を学生にさせようときわめて「良心的に」学生を導こうとする先生もいます。(はじめましての掲示板で「なかいかずあき」さんが受けた熱心な先生はその種類の中でいちばん純粋な先生です。)
けれどもそうした先生には自己矛盾があります。そうした先生が先生になったのは、ほかにそこまで努力できる学生がいなかったからなのですね。あるいは辞書と文法の努力が合わない学生がほとんどだったから、そういう人たちは英語の先生にならなかった・・・ つまり辞書と文法の先生は余人にはできないことができたから先生になったわけで、その努力を教室の生徒全員に望むのは元々無理がある・・・
少々長くなりすぎました。最後の条件に行きます。
*多読授業に踏み切るために学校が備えていた方がよいと思われる条件二つ:
1.校長先生が多読支援の先生を強力に支援していること
2.多読を熱心に推進する先生が二人以上いること
この二つの条件はわたしが全国の中学高校を回って得た経験則です。この二つを満たさずに多読授業に踏み切ってうまくいった例は一つしか見ていませんね。ですから、上の二つの条件を満たしていない場合は、どんなに熱心な先生でも、一直線に多読採用に向かわずに、「ささやかにはじめ」て、仲間を増やすことをすすめます。たった一人で懸命の努力をなさって、実を結ばなかった先生方を何人も知っているからです。
さて、長くなりすぎました。学校・大学外の読者の方も、学校・大学に導入するにはそれなりの困難があるのだということがわかったと思います。むしろ一人で多読を進める方がはるかにやさしい!
でも、熱心にこどもたちに多読させたいという先生方はあちこちにいらっしゃるので、わたしはその人たちを支援し続けようと思います。
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