8月5日午後に、「多読の非常識」の改訂版の名前だけを改訂しました!
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最初の投稿からおよそ一月たっていますが、この記事はとくに問題があるようです。
というのは、どうしてもみなさん、ここで書いた「母語よりも早い獲得を自分の獲得具合と比べてしまうからです。
さて、どうしたものか・・・?
以下、初出時の記事に手を加えたものです。
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「多読の非常識 その弐 量について」に対して「fiona」さんが日本語を読む量、聞く量とくらべてくださいました。
その中で「Ⅱ.英語多読、どうして少ない量で効果がある?」という項目を設けて、
日本語を読む量と聞く量にくらべてはるかに少ない量なのに、なぜ効果があるのか
という問題を設定しています。fionaさん自身の答えは「はじめのうちは効果が出やすいのではないか?」というものでした。
さて、わたしを含めてまだだれも説明できる人はいませんが、
「少ない量で効果がある」
ことは多分まちがいないと考えています。
説明は後回し(永遠に?)として、多読の成果のことを参番目の非常識としてメモに残しておきます。
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多読を広める活動をはじめたころ予想していた成果は、
今考えるととても 控えめなものでした(?)。いわく、
- 100万語読めばペーパーバックが読めるようになりそうだ。
- 150万語くらい読むと英作文とはちがう「流れる文章」が書けるように
なるのではないか? - そのうちいつか話せるようになる可能性だって、きっとある!
あってほしい・・・
ところが、SSSの掲示板でさまざまな人の報告を読むうちに、どうも、多読の到達点はそんなものではなさそうだということが少しずつ、しかし確実に、明らかになってきました。とんでもないことが起こりはじめたらしいことが、少しずつはっきりしてきました。
この6年半は毎週のように、うれしい驚きが続いています。もちろん今もです。
しかもその「とんでもないこと」は(どういうことかはすぐに列挙します)
恐ろしく早く顕れるようなのです。
たとえば、読むことについては、ごく初期のことですが、純日本産の中学1年生、2年生が多読をはじめて1年もたたずに英語国の中学1、2年生が読む本を楽しみはじめました。
それから少しして、ある小学校3年生がOxford Reading Treeを半年間読み聞かせしてもらったところで、ORTの文字なし絵本に自分でお話をつけました。英語で、口頭で話したのです!
それから少しして、高校1年の4月から多読をはじめた人が2年生の秋になってスタンダールの「赤と黒」の英訳本を読みました。
(こうした例はたまたま非常によい多読にはまって、本に恵まれた
こどもたちです。だれでも同じように早くおなじような成果になると
思わないでください。こうした例は「多読研究者」としての
わたしの関心を引いただけのことです。決して一般化できるとは
思っていません。好条件が重なった場合に「多読で何が起きるか?」を
示唆しているだけです。しかもまだその「好条件」が何かは
わかっていません。)
学校英語の常識では、ペーパーバックをさらさらと読むなどと言うことは、
必死で英語を勉強した学者がやっとできることで、普通の人は何十年たってもできないことになっていました。
今や社会人の年齢の人たちが、数年で、英語の読書を楽しむようになっています。
学校英語の常識の数分の1の時間でかつては夢だった成果を挙げているわけです。
これは学校英語の常識どころか、世界の外国語獲得理論を覆す非常識な話です。いわば多読はそういうとんでもないことを引き起こすものと覚悟していろいろな現象をみていく必要があるようなのです。恐ろしくも楽しい!
さて、これ以上書くとどんどん細かくなって、読みにくくなります。
ここで、終わりにして、「メモ」を閉じることにしましょう。
みなさんの感想、意見を求めます。
なお、次回は、「読む」から「聞く、話す」へと勇敢に、何気なく進出していった人たちの話です。
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