わたしが「辞書を捨てろ」というのも、「一つ一つの音や語を正確に聞き取ろうとするな」というのも、実は一つの根から出たものだということが最近はっきりしてきました。
それは「言葉を分析することは意味がない」ということです。
別の言い方をすると、
「一つ一つの音や語にこだわっていては言葉は使えるようにならない」
ということですね。
もう少しかっこいい表現をすると
「言葉の最小単位は語ではない」
ということになります・・・
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辞書や文法を英語学習の中心に据えている人たちは「言葉は単語の集まりだ」と
考えていると考えられます。
そしてそういう人は世の中のほとんどの人です。英語では語が分かち書きになっているので「単語」という呼び方が一般化し、いかにも単語が言葉の最小単位であって、一つ一つの単語の「意味(多くの場合は訳語)」がわかれば、それを連ねていけば「文」の意味がわかると信じられています。
それに対して、わたしは「語」は言葉の最小単位ではないと考えた方が、
外国語獲得がうまくいくと考えています。言葉の最小単位は「文」であると
わたしは思います。
SSSの掲示板で数年前にこのことが話題になったとき、「たこ焼き」さんは
「言葉の最小単位は物語だ」と書きました。
これには大きな襲撃を受けました。「物語の力」を仮定するわたしには
非常に魅力的な説で、以来ずっとたこ焼きさんの説が頭を離れませんが、
いまはやはりそうではないだろうと考えるようになりました。
というのは、「最小単位は物語だ」とまで言ってしまうと、
ほかの何でもよいことになりかねない!
(たとえば「言葉の最小単位は世界だ」、あるいは「愛だ」、はたまた「ゲンゴロウだ!」)
根拠は「文は、そこから世界や物語を再生できる最小単位だ」というものです。
つまり、語からは世界も物語も作り出せないが、文からはどちらも創造(想像)できる、
ということです。(あれれ、繰り返しか?)
たとえば dog 一語から世界や物語を想像(創造?)することはできませんが、
I saw a dog running in the field. からはさまざまな世界や物語を紡ぎ出すことが可能です。ちょうど「ナルニア国物語」のきっかけが作者の頭に浮かんだ「街灯の下を歩くパン」だったように・・・
dog一語からでも可能だという人もいるかな? でも、ただ
dog では、犬かどうかもわかりません。「しつこく後をつける」
なんていうときに使う動詞かもしれません。単語には世界や物語を
収束させる力がなく、文にはその力があるという言い方も
できるかもしれません。
さて、またしても全部を書く時間はありませんから、この話題もみなさんの反応によって「続き物」にしようと思いますが、最後に一言だけ、「言葉の最小単位は語ではなく文」という見方は、多聴やシャドーイングやたくさん書くこと、たくさん話すことの土台でもあるだろうという予想を付け加えておこうと思います。つまり、これまでの外国語学習の最大の問題点は言葉の最小単位を語だと思い込んできたことにある、ともいえると思うのです。
では、みなさんのメールや掲示板への書き込みをお待ちします!
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