このところ学校へうかがってお話しする機会が増えたことはどこかに書いたような気がしますが、その増え方たるやすごい勢いと言っていいくらいです。最後の砦(?)と見えた公立校でも、多読支援のために研究会が作られました!
きょうはそういった学校訪問のあとある先生からいただいたメールを紹介します。
いろいろ示唆に富んでいて、わたしは永く何度も読み直すだろうと思います。
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SSSの掲示板を通じて多読が社会人に広まりはじめたころ、わたしは
「サンドイッチ作戦」を唱えていました。
そのころ児童英語の先生方で多読に関心を示す人たちが現れ、その人たちのエネルギーに感心して、これは社会人の次は児童英語かもしれないと思いはじめました。
そこで夢見たことは、いつか社会人が自分のこどものために「学校で多読を!」と言い出すこと、そして児童英語で多読に触れたこどもたちが中学校にはいって、「この子たちはちがう」と先生方が驚くこと、でした。社会人と児童英語が学校や大学を挟み撃ちにする・・・
あのころはただの夢でしたが、なんと少しずつ現実になってきました!
(ああ・・・
書きはじめるとながーい話にないそうですね。
またいつかということにするといつになるかわからなし・・・
えい、記事は学校訪問のことだったのだけれど、書いてしまいましょう。)
挟み撃ちがどんな風に進展していくかも、その頃から考えていました。
さきほど書いたように、多読小学生が中学生になって中学が変わり、
多読中学生が高校生になって高校が変わり、多読高校生が・・・
まさかそんなに簡単に事が運ぶはずもなく(特に大学はむずかしい)、このシナリオはまだ夢ですが、4年と少し前から高専が加わり、サンドイッチの厚みが増しました。最初は沖縄高専と豊田高専、次いで東京高専、いまでは日本中で多読授業をしている高専はかなりの数に上ります。
ここで急にこの記事に話題へ向けて着地をめざしますが、サンドイッチ作戦といい、高専といい、「多読ははじっこから広がる」といえそうな気がします。言い換えれば、産業界(TOEIC)や文部科学省(入学試験)から遠いところから普及する傾向があるようです。
中学高校の前に高専から広がったのは理由があります。高専は15才から20才の若者を対象にしていますが、高等教育機関なので文部科学省の指導要領に支配されません。(それに15才から5年間だし、わたしは高専にはとんでもない可能性があると思う。大学なんか目じゃないっていう大きな可能性があると思っています。)
つまり、多読はどうも現在の本流を外れたところで芽を出しやすいと考えられます。中学高校で広がりはじめたのも「中高一貫校」という、今のところ本流ではない学校からです。
長くなったので、ここでいきなり本題(?)へ・・・
学校をしょっちゅうサボり、昨日も1限の私の授業はサボった生徒(出席してても寝てたり、聞いてなかったりの、学校の中では、いわゆる困ったちゃん)が、
これまで私が見たことないような熱心さで先生の話に聞き入り、感想欄に
「今日学校サボらないでほんとによかった」と書いていました。
言うまでもありませんが、この「困ったちゃん」は本流を外れているわけですね。
逆に、学校の勉強で点の取れる学校生活成功者(?)は「このおじさん何をいってるんだ??」みたいな印象でした。
ほら、点の取れる本流の人は、こういう反応なわけですね。
これだけですべてをはかるつもりはありませんが、典型的な場合だなと思ったのです。(学校生活成功者のこどもたちには別のやり方で迫ります。)
で、ここからはこの先生ご自身が印象的です。
私自身、かなりの努力家なので、こつこつ型勉強で人並み以上には到達するわけですが、どうもその先伸び悩むんですね。
TEOICのスコアをもう少し伸ばしたいと思っても、いまさら単語帳や問題集なんてやりたくもないしやろうと思っても続かない。(受験勉強以外の英語の勉強はほとんどやったことがありません。)特に留学経験も英米圏での生活経験もない私はリスニングが苦手。
このごろ学校の英語の先生に多読支援の話をすることがおおいわけですが、
そのときよく「多読支援に踏み切るための二つの条件」というのを言います。これが厳しい!
一、先生が自分の英語はだめだと感じていること
二、自分のいままでの授業ではこどもが何も得ていないと感じていること
どちらも先生方の自尊心をぐちゃっと傷つけるような物言いをします。
でも、これはわたし自身が感じてきたことなので、遠慮はしません。
このメールをくださった先生はわたしとおなじ「絶望感」の中にいるように思われます。
(自分は英語ができると思っている先生は、「わたしのやってきたように
生徒もやればいい、それで生徒ができるようにならないとしたら、
生徒の才能や努力が足りないからだ、授業がわるいのではないと
考えるようです。)
で、多読でいろいろ本を読むようになって、さらに聞き読み、続いてDVDと、授業する関係で自分も読んだり聞いたりしていたら、伸びましたよ、リスニング力。特にDVDや海外ドラマは、たまにディクテーションしたり、単語の意味を調べたりしましたが、ほとんどは楽しく見ただけでした。
私たちが人の話を聞いて理解している時に、一語一語を聞き取って理解しているわけではないですよね。その場の空気と、状況と方向性と・・・結論を予想する力と・・・そんな「気」みたいなもので理解してるんじゃないでしょうか?
多読や多聴で身につくのは、そんな話の「気」を読む力じゃないかしらん。一語一句ばらばらにしてしまうと、そんな「気」があることすら気がつきませんから。
わたしが「物語」と表現することをこの先生は「気」と表現しているように思えます。いずれにせよ、分析し、分解することの空しさを感じているところは意見が合っていそうです。
次回は私自身の経験談なども生徒にしてみようと思います。
もう一つ、この最後の一言もすばらしいと思うのです。
これはぜひ語ってほしいと思います。理由は今度こそ「またいつか」にしますが、多読に指導者はいらないわけで、「わたしも同じ道を辿っています」という支援者がいればいいわけですね。そして支援者の条件は「道連れ」ということだけだと思います。何も「先生」である必要はない。先生であってもいいのですが、先生は「多読仲間」としてそばにいればいいはずです。
あ、結局長くなってしまった・・・
ここまでにします。
???先生、生徒と一緒に、Happy reading!
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