いづこさんから、2回に分けてメールをいただきました。
じっくりお読みください。いっぱい示唆に富むことが書いてあります!
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いづこです。
意見を述べさせてくださいませ。
み>テストのための英語、
み>日本人による英語、文法のための英語みたいな、生きた英語と結びつかないものも
み>いっぱいあるので、そういう不自然な英語はそぎ落とす必要があるけれど、
さ>ここまではその通り!
はい!その通り!
でしょ?
み>そういう不自然な英語ではない英語の知識が生きた英語と結びつくと、急に分かると
み>いうか、自分の中に英語が入ってくるようなこともあるから、学んできたことも
み>悪いことばかりではないのではないかという気がするのですが・・・。
み>あくまでも気ですが。。
でもですね。人生の時間をかけ過ぎ、大事な時期を使い過ぎ、だと思うのです。
そう、ここがいつもいづこさんとわたしの意見の一致するところで、
なかなかほかの人の同意が得にくいところですね。
いまの学校教育にどのくらい焦燥感を持っているかの差だという気がしております。
中高の6年間?
プラス短大or四大の8or10年間?
そしてプラス、小3から必修だって!プラス4年間の14年間?
うぁ?!!絵本を読んでスタートして、中高でも絵本と本を読んで
高校ぐらいから、やりたい人だけ「知識」の英語をやればいいじゃん???!!
(読むこと以外にも、こんな活動がいい!という提案はありますが、
ここでは論点がズレるので、言及しません。)
みちるさんのメールに対して、酒井先生の出されたこたえのキーワードは
「素材」ですね。
「素材」はあとで「みちる」さんからのメールを紹介して、少し訂正します。)
鈴木先生からのメールで、酒井先生がおっしゃっている
さ>学習が「人間が本来もっている好奇心に根ざした向上心」に基づいているなら、
さ>よいことでしょうね。
さ>(ただし、ここでもわたしは向上心が本当に自分から出たものか、
さ>それとも外から持たされたものかは区別しなければならないと思います。)
このカッコ内、大さんせーです!!
子どもはマルをもらうのが嬉しいです。
これは、
1、自分の向上が自分にわかること、
2、それが認められたこと、
3、それで、親に誉められること、
4、他のひとに自慢できること、
などから嬉しいのですよね。でも、どれも「好奇心に根ざし」てはいない。
そして、2?4は、外(親や社会)から持たされたものですね。
でも、それでも「子ども」の「喜び」かなあ、と思うと、私もちょっと心が揺れます・・・
ここも「さんせー!」と言ってくれる人が少なめのところですね。つまり、「楽しければいいじゃないの」なんだけれども、
いづこさんやわたしは猜疑心が強くて、
「ほんとにこころから楽しんでいるのかなあ?」
楽しいと思いこんでいるけれど、実は誰かに無理して合わせてない?
ってもう一度考えてしまう
>世の中にかならずしも「先生がいて生徒がいて、先生が生徒を教えなければいけない」ということはないのではないでしょうか?
そう思います。と言うと、私、商売あがったり?ですけれど。
でも、それでも「教えてください」「教わりたい」っていう、目が目の前にあることがあるんです。
その人(子)たち、自分自身の好奇心を捨ててないか?と思うんですが。
(ああ、商売があがっていく?)
やっぱり、学校で規律にしたがって勉強することが良い、って、人の先入観にありますよね・・・
ついていけなくなったり、自分で疑問に思うまでは。
鈴木先生が「楽しい」について言及されています。
「向上する楽しさ」・・・はい、これはどの教科、どの学習、獲得内容にも共通してある楽しさですね。
英語には、その他に
英語にふれていて、「リズムが楽しい」というのがあると思います。(感じ取れる個人差はあるかも?)
もうひとつ。
英語は人と気持ちをやりとりするためにあるもののひとつだから=言葉だから
「英語にふれているだけで楽しい・・・人の気持ちが感じ取れて」というのもありうると思います。
でも、この最後の楽しさを感じるためには、学習の場から、
「生きた英語と結びつかない、不自然な英語」を排除しなければならないし
またそういうことに、多感で大事なときを、長い時間を、かけていてはいけないのではないでしょうか。
(入力内容が大きすぎだそうで、「続く」です。)
ここまででも書くのは大変だったでしょ? ありがとねー!
(続きです。)
鈴木先生のメールまで、ブログで読ませていただいた状態で、これを書いていますが
「評価」への言及がないのは、
以前の「加点主義vs.減点主義」で、だいぶいいつくされているからでしょうか?
あ、たぶん鈴木さんも評価のことを気にしていないのではないかな?
少なくとも書いてくださった話題の範囲ではね。
私、学習において、
「人間が本来もっている好奇心に根ざした向上心」測れる評価なんて、無いと思います。
ドリルとワークとテストと評価、やめましょうよ??。
これらは、必要な規律ですか?
いいぞ、いいぞ! (これでわたしの「お客さん」が減っていく?)
受験に英語、やめましょうよ???。
英語は特別なんです。(この際言い切る)
「教科」であってはいけないんです。
「気持ち」を伝えるものなんです。
知識的英語を排除して、たっぷり「気持ち」をあらわす言葉として触れて楽しんでから
選択した人だけが知識的英語を学んでいく・・・のが筋ではないかなあ。
学校に多読が入るようになってきたんだから、方向性として、きっと目指せると思うんですけれど。
ここもさんせー、さんせー、ろくせー!
さて、少し趣を変えまして・・・
どうしてもどうしてもテスト?
せめてちょっとやり方変えてくれないかなあ。
最近、だんだん激しく許せなくなってきているものに
適語補充の四択問題があります。(他にもいっぱいありますが、今回はこれ。)
英検各級の1番みたいな形式です。
確かに記述より、受験者の気はラクでしょう。スペリングを覚える必要もないし。
でも、よーく考えなくても、迷い無く正答が選べるならいいのですが、
そうじゃないときは、誤答を当てはめ、
その瞬間に間違った(間違いとされる)英語を吸収してしまうんです。
それでいいわけなくないですか?
ないない! ないぞー!!
せーめーてー
例えば、60点で合格、めざせ100点のテストをすべて適語補充四択の問題で作るとすると
設問は300問用意します。1問1点。
そして、間違えると、マイナス1点。
点がもらえない、じゃなくて、マイナスになるのです。1問合ってて、1問間違ってたら、差し引き0点です。
つまり自信がなかったら、その問題には手をつけない方がよい。
そんな問題、考えるな。どんどん次の問題へ移る。
合格点がほしければ、60点とれたと思ったら、そこでやめる。安全のために少し余分にやってもよい。
欲しいだけの点数分、問題を解く。
Time is money. 欲しいだけの点が取れたら退室して、他教科の学習や、人生の別のことをする。
いい点がとりたければ、100点とれたと思うところまで解答する。
同じ100点をとる人でも、300問中、何問見たかは、人による。
100点以上は、102点も180点もすべて「100点」とする。
やりすぎても意味ナシ。
「減点主義」を含んでいるのですが、こんなのがいいなあ。
もちろん、各設問がぶつ切りの短文なのも、気に入りませんけれども・・・
それに、そもそも「問題を解く」「点数をつける」も、なんだかなー、ですけれども・・・
具体的すぎて、ごめんなさいです。
驚きましたね・・・
実はこれと同じ評価方法を提案したことがあって、見事拒否されたことがあった。
何か「テスト学」的には、よくない方法なんだそうです。
こんなところでですが、ではでは。
いづこ
いづこさん、ありがとー!
ちょっと乗せられて、過激な意見を吐露してしまった気がしますが、
ありがとー!! みなさんはどう思いますか???
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