鈴木徹さんという、高校の英語の先生からメールをいただきました。
中身がびっしり、長さもかなりありますが、言葉は軽妙!
ぜひじっくり読んでください。
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>こどもたち(おとなたち)の「好奇心」?「自分にとって善いものを得ようとする」? 「生きようとする力」? をできるだけそのまま発揮させてあげることかな? と・・・
↑これはわたしが書いた文ですね。
The mediocre teacher tells. The good teacher explains. The superior teacher demonstrates. The great teacher inspires. by William Arthur Ward
「凡庸な教師はただしゃべる。良い教師は説明する。優れた教師は自らやって見せる。偉大な教師は心に火をつける。」
これ多読支援者には必須の言葉ではないでしょうかね。私は、『心に火をつけるKIDSコーチング』を読んでこの言葉を知りましたが、教員試験突破したみなさんは既に知っている方も多いんだろうなぁ。(私は「教職教養」は全てカンでマークしました。)
こども式ブログの、みちるさんと酒井先生の議論を読みました。これ、学校の教師には重要なテーマです。「学校の教師」という立場から私の意見を述べさせてください。
まず「学習」についてですが、学校は広い意味でも狭い意味でも「学習」の場です。「学習」の目的は当然「習得」です。狭い意味では技術や知識の習得、広い意味では「現代社会で生きる力の習得」です。私は「学習」に関しては、『子どもに伝えたい「三つの力」―生きる力を鍛える (NHKブックス) 』『「できる人」はどこがちがうのか (ちくま新書)』斎藤孝 (著)の考え方が気にいってます。
酒井先生は「学習」を「学校・教師・入試によってゆがめられ、本来的な意味を失ってしまったもの」としてとらえていると思います。それに対しみちるさんはもっと本来的なもの、人間が本来もっている好奇心に根ざした向上心とでもいいましょうか、そういう心にもとづいた行動ととらえているのではないでしょうか。
はい、その通りです。
わたしは「学習」というのは「今の日本では」こどもたち、おとなたちの個性を奪うものだと考えていました。でもいろいろな人たちの意見を読むうちにわたしの見方は悪い面ばかりに焦点を当てていたなと反省しています。
学習が「人間が本来もっている好奇心に根ざした向上心」に基づいているなら、
よいことでしょうね。
(ただし、ここでもわたしは向上心が本当に自分から出たものか、
それとも外から持たされたものかは区別しなければならないと思います。)
斉藤孝の著書ではこの辺の「学習」観が明確に述べられており、教師の役割も明確に述べられています。文科省が「生きる力」を言い出したのもこの「ゆがみ」が根底にあると思います。(「生きる力」については、『プロ教師の見た教育改革 (ちくま新書) 』諏訪 哲二 (著) を読み文科省の言う本質が理解できました。それまでは「また文科省がふざけたこといいやがって」と思っていました。)
公教育において学習は強制されます。強制やノルマ自体を否定してしまっては公教育は成立しません。しかし、細かい学習内容や学習方法までも「歪んだ形で強制している」ことが問題となるのだと思います。(それに気づきはじめたときに「学校英語につける薬」を読み衝撃を受けました。)
ここで、「過激な意見」を言うことになりますが・・・
わたしは「公教育は成立しなくていい」と考えています。
そもそも「教育」という言葉そのものが「成立しなくていい理由」をそのまま表しているのでは? 世の中にかならずしも「先生がいて生徒がいて、先生が生徒を教えなければいけない」ということはないのではないでしょうか?
文部科学省は「人材」という言葉が大好きです。文部科学省の文書にはこの言葉が頻出します。公教育をあずかる文部科学省はこどもたちを「経済発展のための材料」としか考えていないのです。文部科学省がい全国の先生方に要求していることは一言で言えば「品質保証」ではないでしょうか? 工場のQCですね。
英語に関しては特にそうです。そもそも教師が英語を本質的に「学習」していない。私は昨年、文科省が日本全国の英語教員に「強制的」に課した集中研修に行きましたが(「行かされました」)、驚いたのは英語教員の英語力のなさです。研修を強制した文科省には腹が立ちましたが、実際に英語教員の英語力の低さを目の当たりにすると文科省の気持ちもわからんでもない。(短期間の研修で英語力があがるわけねーだろ!とは思ってます。)どれくらい低いか。読めない、書けない、聞けない、話せない、です。そうとしか言いようがありません。講師は英語母語者だったのですが、相当苦労してました。
本質的に学習していない教師が、本質的でない学習を強制する、ということに酒井先生は怒りを感じているのだと思います。私も怒ってます。しかし、学校の教員としては「学習」自体を否定はできない。むしろ私は多読が「究極の学習形態の1つ」だと思っています。また、本質的な学習を「支援」するのが、教員の仕事だと思っています。酒井先生は「究極の学習支援者」なのです。
このあたりになると、言葉の定義次第で言い方はどうにでもなってしまいますね。
その意味で、つまり鈴木さんの言われる意味の「学習」であれば、
わたしはたしかに「学習支援者」です。
公教育において学習を否定できないのと同様に、強制も否定できません。極端な話、厳しい校則も場合によっては必要だと思います。ただし、全ての強制は「本質的な学習を支援するためのもの」でなければなりません。例えば、生活が乱れ規律も何もない学校では多読の授業など100%成立しません。「本質的な学習を楽しくすすめる」ためには、それを保障するための環境が必要であり、その環境は強制によってつくらなければならない場合もあります。(強制なしに環境が整えられるというのは、生徒の質による一時的な現象であり、恒久的に「保障された」ものには決してなりません。また本当に優れた教師は強制を強制に見せません。)前述の諏訪哲二の著書にはこの辺がうまく書かれています。
多読の例でいえば、電通大の授業でも、「定められた時間に指定された場所に来る。」というのは明らかな強制であり、ノルマです。しかし、強制やノルマを「生徒の本質的な学習を支援する」という目的で「調整」するのが教師の役目です。電通大の学生に「1時間に何冊以上読む!」ということまで強制を広げるのは愚の骨頂です。しかし学習者の状況によってはより大きな強制があった方が本質的な学習に向くという場合もあるのです。ここを見極めるのが教師の仕事です。強制やノルマ自体を否定してしまっては実は教師(=支援者)の役割自体も否定することになると私は考えています。
鈴木さんの言うように「よく解釈すれば」たいていのことは「良いこと」になってしまいます。わたしは「学習」にしろ「ノルマ」にしろ「悪い面」があるので、そちらに気をつけようといっているのでしょうね。
少し話題はそれますが、「楽しい」について。楽しくなければ本質的な学習とは言えません。この点酒井先生もみちるさんも異論はないと思います。しかしここで言う「楽しさ」は単に「らく」なこと、「おもしろい」ことと誤解される可能性もあります。私が考える楽しさとは「向上する楽しさ」です。
わたしはもうちょっと享楽的で、「楽しければ向上はあとからついてくる」
と考えているようです。
わたしは自分の授業紹介で(業を授けるつもりはありませんが)
二つのことを前提に授業をすると言います。
一つは、きみたちはもう英語も英語の授業も大嫌いだということ。
二つは、でももし「ラク」で「おもしろい」やり方があれば英語は身に付けておきたいと思っていること。
すると、できるだけサボりたい学生がわんさを集まってきます。
スポーツを考えればわかると思いますが、野球のキャッチボール、サッカーのリフティング、などはやったことない人には「何が楽しいんだろう。」と思うかもしれません。でもやってる方は楽しくて仕方がないのです。レベルが上になると、嫌がらせとしか思えないような練習もありますし、指導者からの罵声等も日常的に受けることもあります。それでも選手は「楽しい」のです。どんなに単調でも苦しくてもそれで「うまくなる」「勝てる」ことが実感できれば楽しいのです。
みちるさんの言っている「学習は楽しい」というのは、「向上する楽しさ」なのではないでしょうか。そして酒井先生が否定している学習とは、「向上が実感できないことを強制する」ようなものを言っているのではないでしょうか。
つまらない文法訳読、単語暗記も、それで劇的に英語力が向上すると学習者が実感できれば「楽しい」はずです。(ここ「仮定法過去」でお願いします[笑])しかし、そうではない。やればやるほどわからなくなるし、やってもやってもできるようにならない。だからダメなのです。「歪んだ強制」です。
「学習」、「ノルマ」、「プロジェクトX」のおそろしいところは、「ゆがんだ強制」とそうでない強制の差を見えにくくしてしまうことではないでしょうか? 思想強制のための「学習」や金儲けのための「ノルマ」と同じ言葉をわたしは使うのに躊躇してしまうのですね。
学校の教師が「楽しさ」を勘違いするととんでもないことになります。前述の研修では、中学校の先生の模擬授業を見たのですが、ほとんどの人が、授業の最初に「ビンゴゲーム」や「お歌を歌う」という活動をしているということでした。「こうでもしないと生徒が興味をもってくれない」と言ってました。しかし、ビンゴが本当に「楽しい」のでしょうか。私は最初に赴任した「教育困難校」でこういうことをやりました。生徒が喜ぶのは最初の2回です。それ以後は「てめーおれらをなめてんのか!どうせバカだと思ってこんな遊びばっかやるんだろ!」と言われました。逆に授業態度等や提出物に対して非常に厳しい先生の授業を、荒くれ者たちが「楽しい!」と言って集中していることもありました。その研修の講師はすばらしい人で、「Please, don’t underestimate your students. 」と言いました。
これは本当に、本当にその通りです。「向上する楽しさ」を知らないように見えるこどもたちは、実は文部科学省やおとなたちの「人材」になりたくないこどもたちのようにわたしには思われます。品質管理でははじき出されるけれど、それは「今日よりよい明日」を望んでいないということではないのではないかな。その部分をおろそかにしない先生の授業は楽しくて、集中する・・・?
逆に、多読で高校生にORTやLLLのような「こどもチック」な本を読ませるときに、「こんな簡単な本で生徒が楽しめるのか。」と言う人もいますが、それは違います。ORTやLLLは深いのです。ビンゴとは違います。そして、読むことによって「向上する」ということがすぐに学習者にわかるから表面的にも本質的にも「楽しい」のです。逆に言えば、多読を「楽しく」思わせるのが、教師の腕の見せどころだと思います。
話が相当変わってしまいましたが、結局酒井先生もみちるさんも学習の定義がずれてるだけで、同じことを言っているのではないでしょうか、ということを公教育の教員の立場から考えてみました。
そう思います。唯一の違いは「学習」や「ノルマ」のよい面に注目するか、悪い面に注目するか、ということのようですね。
私を知っている同僚や生徒がこんな真面目な文章読んだら笑っちゃうかもしれませんが、適当にやってるからこそ本質が見えるということもあるのだよ、君たち。ははは。多読に通じるでしょ?
通じますね・・・
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