多読の悩み??ぞくぞくぞくぞくぞくぞく・・・(ほとんど鳥肌です)

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「ぴーママ」さんから、多読挫折体験談! そして、その自己分析!
このあと、シャドーイングのカテゴリーで、「挫折からシャドーイングで抜けた体験談も投稿します。

私も「紫」さんや「あうでぃ」さんと同じで、英語に関しては誰にも負けない超低レベルでした。(一緒にしてしまってごめんなさい)
でもって、過去に同じ悩みを持ってました。
私の場合は『停滞』では済まず、『挫折』でしたが・・・
お二人のメールを読んで、もしかしたら、これは自称「超低レベル」の人に起きる現象なんじゃないかと感じました。
> 英語が不得意だったり、嫌いだったにもかかわらず、文法とか和訳の亡霊に取り憑かれているというか・・・
「亡霊」ではない気がします。
英語を全然勉強しなかった人でも、学校で国語にしても算数にしても、完璧主義教育を私達は受けてきてしまっているのです。
そこには「なんとなく曖昧」とか「ぼんやり解る」という答えは無かったんです。
> そんな人でも多読で楽しく英語の本を読めるようになると
そんな人だからこそ「英語の本が読めるようになるかもしれない」という事に強いあこがれを持ち、過剰期待してしまうんですよ。私の場合そうでした。
で、何か参考にしたくて掲示板を読むと
> 皆さんが悩まれているレベルとどうも次元が違うような気がして・・・
そう!そう!!
そして、そして・・
> 真面目過ぎるのか判らないもやもやがずっと続く状態が辛いです。
これ、これ!!
> ここを読むとやっぱり学校英語の「100%理解」の影響かな?
いえいえ、学校英語じゃなくて学校教育すべての影響ですよ!!英語教育だけを悪者にしちゃいけませんよ!
と、ここまでで、次は私の体験談です。

ぴーママさんのいうとおりだとぼくも考えています。「学校教育すべての影響」ですよね、たしかに、おそらく、たぶん、まちがいなく・・・
で、ぴーママさんは「超高速和訳マシーン」を仮定する・・・

私の体験談です。
私は3年半ぐらい前に「今日から読みます 英語100万語」の本を読んで、「多読の真似事」を始めました。
あの本の中にあった「Flying Home」が取り合えず読めて、これは凄いとその時感動したものです。そしてレベル0の絵本を読んで、子どもが石を拾っている絵のページに「pebble」という習ったおぼえのない単語があっても、「きっとこれは『石』の事だ!」と、想像が出来た自分に凄いと喜んでいたのです。
ところが、私の場合、レベル2に行くか行かないかの時に、この想像が追いつかなくなり、ついには読めなくなってしまいました。
「沢山読めば・・・」という言葉が重荷にもなりました。
つい最近、多読復帰して、3年前のあれは多読じゃなくて真似事だったのかな?って気もしてます。
結局、何分で何文字読めたと言っても、英語を英語で理解していたのではなく、頭フル回転して英文に『レ点、返り点』を無意識につけて、同時通訳のように日本語にして読んでいたのでした。
なんたって我らが祖先は、中国語に『レ点、返り点』つけて日本語にしてしまった人たちですから、語順逆に読む『DNA』がちゃんと備わっているんじゃないですか? これは学校教育って問題じゃなくて、潜在的に(笑)
そして解らない単語もなんとなくではなく、ちゃんとした『日本語』の意味を想像しようとしていたんです。
もしかしたら、ひょっとして、「100万語読みました!」とか「レベル7のペーパーバックが楽しく読めました!」と報告してらっしゃる方の中にも、無意識『レ点、返り点』使って、超高速脳みそフル回転で「翻訳コンニャク」起動させて『日本語』になってられる方がいるのでは??と疑っています。これは僻みの憶測ですが、学生時代英語が得意だった方の中には、「超高速脳みそフル回転同時通訳型翻訳」が可能なのではという気がします。
そして「超高速脳みそフル回転同時通訳型翻訳」で多量に読んでいると、何時の間にか、脳みその中にショートカットが出来て、翻訳機を通さず、英語を英語のまま理解出来るようになる・・・のではないか?と疑っています。
ところが、私達のような英語の苦手だった人間は、「翻訳コンニャク」の語彙も極端に少ないですし、「超高速回転」もしてくれません。
「漢文翻訳」のDNAを持ち、「完璧主義学校教育」を受けた「純日本人」である我らは、この状態のままで沢山読んでいるのは、けっこうストレスになってくるような気がします?
3年前の私は、ここで挫折してしまって、ボキャブラリーを増やしてから出直そうと思い、「多読」をやめて「でる単」のような本を使っての単語のお勉強を始めてしまいました。
酒井先生はじめタドキストの皆さんから「オイ!オイ!」って言われてしまいそうですが・・(苦笑)
ところが、挫折から3年の月日がたち、シャドーイングに出会い、約100時間の「ややこ式シャドーイング」をした後、もう1度多読と向き合ったら、あの時とは全然違う「多読」が出来るようになっていたのです。
それは、理解度20%、ぼんやり度80%でも、なんかほんわか暖かい話だなぁ?とか、意味もわからない韻の繰り返しも、音とリズムの心地よさを楽しめたりしています。
でも、まだ始まったばかり!!
また30万語ぐらいで、停滞や挫折の時が来るのかもしれませんけど・・・(笑)
という所で、続きはシャドーイングのカテゴリーで!!

ぴーママさん、その「超高速英文和訳式多読」はわたしも「快読100万語 ペーパーバックへの道」の中で書いていますよ。
(たしか・・・)
さて、ぴーママさんの体験談の続きはシャドーイングに移りますが、すぐ上のメールを見たわがサイトの「管理人さん」が同感のメールをくれました。

ぴーママさんのメール拝見しました。
> > 以前「シャドーイングについてよくありそうな質問」の返信2つ目に、私の引用を載せていただいた時、最後の管理人さんの経験談に、
> > > ・・多読ではいろんな事を悩んでしまったけど、
> > > シャドーイングはこんなにも悩まなかったなあ、、。
> > と書いてありましたが、きっと管理人さんの「完全主義教育」からの脱皮は「多読」の時に出来てしまったのでしょうね。
引用されるとは思わず、ここは言葉足らずでした。
正しくはシャドーイングをはじめたことで、自分の鎖がほどけたんです。
正確には、いまブログで話しあわれているような多読(英語?)の悩みを、
わたし自身、形は違えどずっとずっと抱えていて、例えば、
「英語がこんなにも出来なかった!」というような赤裸々な発言を伺うたびに、
「えー!それだけ知ってるならすごい!わたしはあなたの言ってること、
やってきたこと、ひとつも知らない!」と思ってました。
だから学校英語でも何でもいいから、ほんのちょっぴりでもいいから、
みんなに少しでも追いつけるように、みんなの話していることが分かるように、
「多読を始める前に」何か身に付けていないとならないのでは?という
考えが頭の中から離れませんでした。
こんなこと必要ないのに。
この「こんなこと必要ないのに」に気が付くのに、
3年以上かかっちゃいました。
ぴーママさんも書かれている、
> > この、「英語をぼんやりとした影のような形でなんとなく感じる」事が出来た瞬間
に、まるで蟹が脱皮するように、固い固い「完璧主義教育」の殻からするっとぬけて
いったような気がします。
この気持ちをシャドーイングで感じることができたから、
わたしの鎖を断ち切ることができたのです。
わたしの場合、不思議なことにシャドーイングでは
「発音なんて知らない」「この音はどんな口をするのか知らない」というような
多読で感じていたような心の鎖が発動することなく、はじめられたのです。
むしろ「何言ってるか分からないけど、わたし英語言ってる?すごい!」と、
ただただ楽しく、浮かれてました。
こういう経緯を酒井先生はご存じなので、
あのときのブログの記事の最後に、
>音の方が文字よりも学校英語の縛りが少ないかもしれない!
>多聴・シャドーイングはその縛りをするっと抜ける近道かもしれない!!
と、書かれたのだと思います。

管理人さんとぴーママさんのメールで思いついたのですが、みなさんに「わたしが完璧主義から脱出したきっかけ」を投稿してもらおうと思います。
あ、でも、ちょっと待ってくださいね。「多読の悩み」についての投稿が一段落してからにします。