日本語多読の現場から・・・ 2

2009年6月12日
カテゴリ : 多言語tadoku, 日本語多読研究会
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実は(って、もう何度か書いていますが)わたしはNPO法人「日本語多読研究会」の
会員です。この研究会は非常に活発な活動をしていて、日本財団の資金援助も
受けています。

  (どうも助成金を受けているあまたの団体の中でも格別らしく、同財団の宣伝
   資料にもよく載せられます。)

前の記事も「続く」に引用する記事も日本語多読研究会のブログからいただきました。

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今日、しんじゅく多文化共生プラザで「本を読むクラス」があった。
先週から参加のKさん、遅れて部屋に入ってくるなり、「千と千尋の神隠し」を4巻手に取り、さっさと席に着き、読み始める。
なにやらメモしているので、近寄ってみると、「まかせとけ!」とか「四駆」とノートに書いて、辞書も出している。いつものように、半分説明しながら、メモをとらないようにと言うが、本人あまり納得していない様子。しばらくするとまた「残骸」なんて書いている。
でも観察していると、10分後にはもう全然メモをとっていない。一安心。
話の面白さにはまってきたので、一つ一つの言葉につっかからなくなったのだ。ノートとるのなんか面倒くさくなってしまうーーこの状態になって初めて「読んでいる」と言えるんだと思う。教科書の文は、あまりにも短いし、読みたいものじゃないし、難しい。だから、言葉の意味を調べたり、文法を確認したりせざるを得ない。というか、教科書の文は、そのためのもの。学校ではそういう作業をさせるから、学生も文はそうやって読むものだ、と勘違いしてしまうのだ。もし、教科書の文が十分面白かったら、Kさんのように学生は、語彙や文法確認を忘れて「読む」のだろうが・・・。

全くそれを証明するような感動的なできごとが3年前のクラスで起こった。
中級クラスで多読授業をしていたときのこと。私は「多読」と「精読」を担当したのだが、「精読」には、始め、教科書を使って、言葉の説明などしながらゆっくり進んでいった。でも「多読」がうまく行き始めると、だんだん「精読」にみんなが乗らなくなったので、生教材を使うことにした。あるとき、「五体不満足」を20頁ぐらいみんなに読ませた。多読授業が順調にいっていたので、みんな辞書を引かずに黙々と読んでいく。でも、そこで、私は、多読の時とは違って、時間を区切って読ませ、本文を丁寧に見ていこうと考えた。
私「今、読んだところで何か質問は?」
学生「・・・・・・」
私「知らない言葉や表現について聞きたいことはありませんか?」
学生「・・・・・・」
学生が知らない言葉や言い回し満載のテキストのはずなのに、誰も質問しない。
名指しされて、仕方なく、2,3人がポツポツと質問する。
じゃあ、内容について、ディスカッションしようか・・・。
すると、ある女子学生がこんなことを言ったのだ。
「先生、どうして途中で止めますか? この本、とても面白いのに・・・・」
ーーそうだよね! やっぱりそうだよね!ーーー
みんなが先を読みたいのに、私は何をさせようとしているんだろうか・・・・というわけで、仕方なくやっていた「精読」授業と私はこのとき、はっきり決別宣言をしたのだ。
あの日のことは今でも忘れられない。多読の勝利!?。
読むものが、自分にとって難しい文、それほど興味がない文であればあるほど学生は一つ一つの語句の意味に拘る。その結果、「読めない」。自分がわかって面白い文であればあるほど、一つ一つの語句の意味に拘らなくなる。つまり「読める」。

この辺のことを学生にわかってもらうのは、本当に大変。
「単語帳信仰」は、すごーく根強いものがある・・・。
この話はまた日を改めて。

精読していた学生がなんで先を「多読させてくれないのか?」と言い出したところ
はわたしなどは感動します。

韓国中国台湾の学生は非常にまじめな人たちが多くて、わたしがよく言う「お勉強」を一生懸命するのですが、その人たちが、いわば「細かいことはいいから、先を読ませてください」と言い出したわけです・・・

うれしいですねえ・・・
そういう「先を読みたい」気持ちから少しずつ「お勉強」が「趣味」になっていくのでしょうね。

元の記事は

http://blog.canpan.info/nihongo-tadoku/

です。ぜひ一度おたずねを!