(毒)一人称と三人称


わたしはよく毎週のように驚くべき報告があると書きますが、先週あたりはいくつもいくちつもありました。最初がある人からのメールでわたしの「寄り添い症候群」がえぐり出され、「みちる」さんの掲示板への投稿でその重要さがわかり、「間者猫」さんのブログで多読で得られる認識の深さを知り、YYYYYYYYさんのメールで多読のすごさを知り・・・
コスモピアと学研の原稿で遅れましたが、この記事はそうした「びっくり、感激」の一つです。京都の講演会に来てくださった「子連れ」さんからいただいたメールです。
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酒井先生,こんばんは.子連れと申します.
文法の問題なので,掲示板ではなく,メールにさせていただきました.
「酒井さんの寄り添い症候群」ということについて,質問があります.11月26日のブログで,「ある人」さんと「みちる」さんのメールを紹介され,「寄り添う」ということに触れておられます.また,山岡氏のメールでの福沢諭吉の訳に対して「寄り添った」と述べられています.これら2つの事柄は,別の問題ではないでしょうか.福沢の訳についての「寄り添う」というのは,翻訳者が作者の意図を汲み取ってという,翻訳上の問題であるのに対して,お二人のメールでの1人称と3人称の問題は,作者と登場人物との間の関係であり,文法上の問題のように思います.それとも,これらは関連しているのでしょうか.

ご本人に聞いたわけではありませんが、おそらく「ある人」と「みちる」さんはお二人とも、わたしの試訳が登場人物に寄り添いすぎていると感じたのではないかと想像しています。(「ある人」とみちるさん、違っていればメールをください!)
で、子連れさんの質問があるまでわたしは気がつきませんでしたが、「作者と翻訳者」の寄り添い方と「作者と登場人物」の寄り添い方は、翻訳の場合は関係がありそうに思います。(よくわかりませんが、現在の感想・・・)そのうちもっと考えます。

以下は,まさに釈迦に説法であり,ご無礼のほどなにとぞお許しを….
先生が,
「地の文のように見えて、実は作者が登場人物の中に入って
その感情や考えを書く場合があるわけですね。
これは he で始まっていたりするから、ただ「he=彼」と
思っている人は第三者的な距離を持って描写していると解釈して
しまうわけです。
つまり三人称で書いてあっても作者は一人称のつもり?」
と書かれているのを読んで,思い出したのは,昔,読んだドイツ語での「扮役(ふんやく)的直接法」と呼ばれているものでした.関口存男氏(実は関口氏の「流読」と酒井先生の「多読」はとても似ているとずっと思っていました.もちろん,異なる点もたくさんあるのですが.関口氏は「わかるとスラスラ読めるようになるのではない,スラスラ読むとわかるようになるのです」と述べています)の命名によるもののようです.ドイツ語と英語とは違うと言われれば,どうしようもないのですが,私は同じ問題だと考えます.

このあとの部分を読んで、おなじだとわたしも思いました。

 関口氏によれば,扮役的直接法とは,
「間接話法の表現に接続法も引用形式も用いず,普通のままの形式で直接法を用いてしまうこと」(関口『ドイツ語学講話』,現代かなづかいに改めました,以下同じ)です.
 扮役的という理由は,
「普通の約束からいうと,うっかりすると筆者が作中の人物と混同されるほどの危険をすらも甘んじて引き請け,作中の人物に代って,(或いは作中の人物に『扮して』と云った方が好い)全責任を一身に背負って前景に乗り出して来ている」からだと言います.

関口さんの噂はわたしも耳にしたことがあります。さすがですね。わたしはまったくその通りだと思います。扮役的とはまさに「寄り添って、なりきって」訳すことですね。関口さんが「作中の人物と混同されるほどの危険をすらも甘んじて引き請け」と書いているところは、関口さん自身が、そう解釈することで「寄り添いすぎる危険をも甘んじて引き請け」ているのだと思います。そしてわたしその勇断を高く買います。
  (おどおどと間違いを指摘されないように翻訳したり、なにかすっきりしない
   解釈をそのままにした翻訳は問題とするに足りないとわたしは思います。)

「扮役という名称を弁護するために,なお一つ,『本当に役に扮して作中の人物の口吻そのままを筆者が己自身の責任に於て真似するのだ』という点を特に強調して置きたい.」
「…筆者自身が,ほんとうに役者になって云っているのです.もし筆者に原稿を読ませるとしたら,筆者は,まるで自分が云うようにNeinと力強く云うでしょう.」
「筆者ばかりでない,この個所を人に読んで聞かせる時には誰でもそうしなければならない.いや,読んで聞かせる時ばかりではない,自分一人で読む時でも,その心得で黙読し,そういう口調が心の耳にはっきりと聞こえなければ,此の種の直接法の用法はその効果が失われてしまう.間接話法でも書け,直接引法でも書けるところを,何を好んでこうした形式を用いるかといえばそれはつまりそうした効果を狙わんがためであると云っても過言ではないと思います.」
「…この扮役的直接法というのは,普通は物語調の過去に多く現れて来ますから,…『扮役的過去』と呼んで好いのですが,物語調には現在形もありますから,従って此の現象はそうした,謂わゆる歴史的現在にも現れて来ます.」

こうしたきっぱりした態度で翻訳に臨む人はどのくらいいるのでしょうね?

さて,重要な点はこれからです.関口氏はドイツ語の文例を示して次のように述べています.
「…念のために説明すると,Sie freute sich herzlich は,筆者自身が云っているのではなくて,彼女自身が Ich freue mich herzlich と云っているのです.Ich freue mich ということは,普通よく云う会話口調の形式なんです.つまり英語の I am very glad です.ーもっとロコツに云えば,彼女は口ではそう云っても,実は心の中ではその反対かも知れないので,Ich freue mich herzlich と云いながら,心の中では『いやな男につかまったものだ』と思ってウンザリしているのかも知れないのです.或いはそうした関係が小説の(小説の面白いところは,表面上の事件よりは,その裏にあるのだから)面白さかも知れないのです.ーこいつを知らないで,まるで筆者自身がそう云っているかのように,『彼女は心から喜んだ』などと訳して,しかも訳者自身が真面目にそう信じていたとすればどうでしょう.一寸した筆の具合で事件から趣旨から何からすっかり別物になってくる.そういう『正しい訳』が世間にどれ位あるか知れやしない.」
何も付け加えることはありません.酒井先生の訳が正しいのですが,これは「寄り添い症候群」という言葉で表せないと思います.

もちろん「扮役的直接法」という表現でもいいのですけれどね。

また,酒井先生はブログのなかで,
「さて、ここでウンチクはさらにその度を増して、直接話法、間接話法、中間話法などというところに発展するのが当然なのですが…」
と述べられています.「中間話法」というのは聞いたことがなく,手元にある文法書を見ると「描出話法」となっていて,これは高校時代に勉強した記憶がありました.「扮役的直接法」は普通の英語の文法書では,「描出話法」という呼び方になっているのですね.
江川『英文法解説』をみると,
「直接話法とも間接話法ともつかない中間的な話法で,小説や物語などでときどき使われる.」
「作者が作品中の人物の気持ちの動きを第三者的な立場から代弁しているもので,心理描写の手法として使われる.」
とありました.他の文法書でも似たようなものでした.酒井先生に「さよなら英文法!」と言われても仕方がないのかもしれません.

関口さんの「扮役的」もわたしの「寄り添い」も「第一者的立場から」地の文で登場人物の心や頭の中を描くわけで、「第三者的立場から」なんていう理解はまったくとんでもない生半可な理解ですね。

酒井先生のウンチク話は,あえて謎かけをしておられるようにも見えます.今回のウンチクは少し気になったので調べたのですが,もしかすると私の考えが全く間違っているのかもしれません.これからはウンチクには,深入りしないよう気をつけます.
最後まで,読んでいただきありがとうございました.
失礼します.

ウンチクにどの程度入っていくか、それは子連れさんにお任せして良さそうな気がします。場合によってはどうぞいくらでも深入りなさってください。
それはともかく、子連れさんの質問はまさに「一人称と三人称」の問題でわたしが採り上げようとしている話題ですね。
これまでの文法書が国内外でどんな理解を示しているかわかりませんが、わたしは「中間話法」と一応呼ぼうと思います。
そして、これは「ときどき」どころか、非常に頻繁に使われているらしいこと、
すなわち重要だと考えられることを書いていこうと思います。
子連れさん、とってもありがとー!
ほかにも「中間話法」に注目した人がいたことを知って、勇気づけられました!!
「わかるとスラスラ読めるようになるのではない,スラスラ読むとわかるようになるのです」というのも、びっくりです。関口さんという人はどのくらいの人に理解されてたんでしょうね・・・?