レールをはずれるために −に− について、「いづこ」さんから

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この記事、背景がちょっと複雑です。
「レールをはずれるために −に− について、「間者猫」さん」の記事の中で、間者猫さんのブログからもらった意見についてわたしが意見を書いて、その最後に「いづこ」さんの間者猫さんへの
コメントも読んでくださいと、書いたわけです。
そうしたら、間者猫さんにコメントしただけのつもりのいづこさんがびっくりして・・・
当然ですよね。それでわたしにメールをくださいました。
ということで・・・
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そういういきさつがあるので、間者猫さんのブログのいづこさんのコメントから読みはじめた方がわかりやすいかもしれません。
という複雑なことになっていますが、ま、こういうこともあるでしょ・・・

あらら、突然私の名前が・・・いづこです。あー、びっくらです。
間者猫さんのところで、コメントを書かせていただいたとき、あ、猫さんのこの記事がもうじき酒井せんせいのところに載るから、そしたら反応メールしよー、と思ってたんです。実は。
しばらくブログに新しい記事が書かれなかったので、かくれんぼでかくれた先で、ねこけてましたよぉ・・・。で、ふいに見つけられた気分。笑

これは実にぴったりしたたとえだなあ! いづこさんらしい・・・

でも、あのコメント、今読むとボケてます。何がいいたいのかわかりづらいですねー。
「多読」について聞いて、「ペーパーバックが読めるようになるためのもの」と思う人、「英語力をつけるためのもの」と思う人、その両者の間のどこかに解釈の落ち着き先を探す人、そしておそらくは少数派なのでしょうけれど、私のように「英語力をつける以前に必要なもの」と思う人(まさか私だけ?怖)、さまざまなのでしょ
うね。
(「英語力」の私の定義:英語を使う力。「使う」の私の定義:空気のように当然のものとして英語がある中で言語活動をする。読むことも含み、読み聞かせを楽しんでいる子どもも、英語を「使って」いると考える。)
私は、「多読」(の考え方)は、リアルな英語世界への入り口へ至るためのマジック・キーなのだと思います。「多読」のない英語学習の世界はアンリアルなのです。

これもいいなあ! 
多読はリアルな英語世界に入るためのマジック・キー!
そうなんだよねえ、言われてみると・・・

「英語力をつける以前に必要なもの」と言いましたが、
これは「多読したら、そのあとは英語力をつけるお勉強をすべきだ」という意味のつもりはありません。
(お勉強で、上記私的定義の「英語力」がつく人は多くないと思いますし。)
「まず多読などで、リアルな英語にたっぷり触れたら、その後「勉強・学習」という選択肢もあるかも。」というくらいの意味です。「勉強・学習」で「まちがっちゃいけない」コンプレックスをたたきこまれる前なら、多読多聴で、英語を口にしはじめる人もきっと結構います。
(あ、おーたむさんのメールの記事への反応になってしまいました。)

わたしもブログの記事を書いたり、掲示板に投稿したり、あちこちで多読の話をしたりしていると、不思議にいろいろなことが重なったり、響き合ったり、関連したりしますね。バナナさんのピアノから鈴木メソード、そして多読へ戻るとかね。
要するにわたしたちは一つのことしか語っていないのかな?

田原図書館での講演会前の昼食オフで、日本人が英語を使えるようにならないのは、「国民性」によるところが大きいのではないか、とおっしゃった方がいました。
はい、基本的に賛成です。そして付け加えて思うに・・・
その日本人の国民性に、英語の長年の「勉強、学習」が、磨きをかけているのじゃないかなー、と思うのです。
英語学習が日本人の国民性を形づくっている・・・
どうでしょう・・・
ああ、考えるだに恐ろしい。やっぱりマジック・キーが欲しくなるな〜。

はい、両者は実に「お勉強好き、苦しいこと好き」な「私たち日本人」にぴったりですね。英語学習と「国民性」が互いに相乗効果を生み出している!

えーと、「レール」か否かでもういちど、まとめます。
多読にレールはありません、といっていいと思います。わたしにとっては大方向転換のための「マジックキー」でした。
なので、方向転換が成ってしまえば、もう「多」読でなくてもいいのです。
自分用としては、自分が読みたい本だけ読みます。
でも〜
多読に「レールはない」という、「レール」(?)が、今度はできつつあるかもしれません。
ブログへの投稿(メール)の傾向がしぼられてきても、酒井先生が何と言っても、
「私にとって、多読は学習法だ!」と思う人は、
酒井先生が用意されたおつもりのないレールでも、自信をもってすすむのもいいかもしれません。
自信をもってすすむのは、もしかして方法が間違っているのだとしても、
いい結果を生むこともあるように思います。
中学のときの私と学校英語の関わりのように・・・

はい、それはそれでいいのではないでしょうか?
多読の入り口が学習法であって構わないようにね。
(でも、いつまでもそれじゃあ、っていう気はしますが)

何にしても(多読以外のことでも)つまりは、「自分でホレて、自分で決めて、自分で迷わず行う」ことは、「レール」上を行っているのではないといえるのではないでしょうか。
「自分でないものが決める」のが「レール」なんじゃないかなー。

おー、まとまった!
レールがないかあるかも含めて、自分でないものに決めさせてはいかん!と・・・
決まりましたね!!

多読は「利用」されているかもしれません。わたしも「利用」しているかもしれません。
まあ、心から信じての個人の解釈による、個人利用なら、害は少ないかも。
学校とかが、「利用」して、個人に押し付けるのは、とんでもないですが。
あ!わたしも「教室」だった。
うう・・・論理(といえるようなものじゃないけれど)の破綻かも。
いづこ

いや、そんなことを言ったらわたしも教室に学生を縛りつけて多読しているわけで・・・
だからね、わたしは「学生が自分から読んでいるような幻想を抱ける場を作ることが教育機関での支援者の役目」という意味のことを言っております。
ではね、いづこさん、いろいろありがとー!
まもなく風呂を出て大学に出かけます。