レールをはずれるために −に− に、「近眼の独眼龍」さんのメール

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いつもいろいろ話題を提供してくれる独眼龍さんですが、メールをくださるのは珍しい。
で、さっそく・・・
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”多読”と”語数”と
ブログ、「レールをはずれるために −に−」、拝見しました。
頭の良い方は、いろいろ考えるので、大変ですね。いえ、
決してイヤミなどではなく、本当に感心していますし、
自分の呑気さを寿いでおります。

いや、ほんとにね、頭がよいというのも疲れます・・・
たまには呑気な人になってみたい・・・

さて、語数。
私は、いままでの英語学習法、勉強法、獲得法の類は、ほとんど
本物の英語に触れる量が、圧倒的に少なすぎることに対する、
アンチテーゼとしての旧来の多読に対して、ジンテーゼとして
出てきたのが酒井さんの多読だと思っています、最近は。

そうではないとわたしは考えていますね。旧来の多読は「(英文和訳を意味する)精読をたくさんやろう」という主旨で、そのため「多読には至らなかった」と見ております。その意味で、本当に多読と言えるのは「三原則多読」であろうと愚考します。
だから、独眼龍さんの次の意見には同感です。

つまり、普通のやり方に比べ、圧倒的に量が多いことを100万語と
いうスローガンでいい、旧来の多読との違いを、多読三原則で
いっていると。
とすれば、語数は 数えることに意義があるというより、たとえば
中学高校で触れる英語よりも、圧倒的多いことを示すことができれば
それでいいのではないのでしょうか。
確かに、減らずに増えていくのは、励みになるので、語数でも冊数
でもページ数でも、カウントは否定しないし、例えば100万語を
通過すれば、おめでとう、です。
でもそれだけ。
私は、多読で 語数の方に注意が行って、多読三原則が骨抜きに
なってしまっている場合の方が心配です。

その通りです・・・ 心配です。
独眼龍さんをはじめとして、三原則多読に疑いを持ってはじめた人は、語数数えだって自分流だったと思います。わたしのいうことなんか信用しない人たち! その上語数がわかっている本が少なかったから、自分で適当に数えて、書評登録をしていた。かつてはほとんどすべてについて、多読する人が主人で、三原則や語数やレベルは忠実な従者に過ぎなかった!

酒井さんのことだから、多読三原則もぶっ壊す対象かもしれません
が、私にとっては 多読を始めて以来、多読三原則は輝き続けて
います。
おっと、話題が語数ではなくなってきていますね。
三原則は、またいつか。

・・・ですね。またいつか! (といいながら、独眼龍さんはすぐにメールをもう一通送ってくれました。「多読三原則独眼龍風」というメールをね。次の記事にします。

酒井先生は、先生の業として、永遠に”多読”について、考え
続けてください。
私は、ずっと多読で楽しんでいきますから。。。
ではでは

まったく・・・ はい、永遠に考え続けます。たしかにこれはわたしの「業」ですね。