言葉の最小単位は語ではない! 「せにょーる」さんからの長文メール

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きのう大宮で児童英語の勉強会がありました。実に充実したすばらしい集まりだったのですが、それはオフ会の掲示板の方で報告があると思います。

その席で「たむ」さんから、多読指導研究会(メンバーは先生方が多いのですが、多読支援や学校、教室、授業に関心のある人はだれでも入れます。このサイトのメール・フォームで申し込んでください)のメーリング・リストに「せにょーる」さんが投稿した意見を読みましたか? よい意見だと思うのに酒井さんの反応がありませんねと話しかけられました・・・

超長文と書いてあったので、日程の混んだ週末が明けてからと思って呼んでいませんでしたが、たむさんの解説を聞いて、これはすごそう!と思いました。それできょう、風呂でじっくり読んでみるとたむさんの言うとおり、「よい意見」です。

では、さっそく!

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ごぶさたです。せにょーるです。長文ですみません。おヒマな方お読みください。実験報告も滞ってすみません。

ことばの最小単位は語ではない!やらシャドーイングやらチビひめの報告(以下転記します)について考えているところに、フェルナンド・トーレスのスーパー・ゴールでスペイン優勝!を見た瞬間いろいろひらめきました。

※ひめの実験報告より(都立高多読支援研究会ML)
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ちびひめ(ひめの娘、3歳)は「この本読めるんだよー、よんであげよっかー」と言って読み始めました。

読んだもの What dogs like

「ふろっぴーのすきなもの」
「ふろっぴーはおさんぽがすきです!」
「ふろっぴーはおそとであそぶのもすきです!」
「ふろっぴーはおひるねもすきです!」
「ふろっぴーはおふろがきらいです!」
「おーしーまい!」

いろいろ実験してみようと思い、この本はCDも聞かせていないし、読み聞かせもしていません。1回か2回、絵を見てこれなんだろうねーと言って絵を自分で説明させたりしていました。だから上のような文の表現はつかっていません。絵の中に本があるのですが、「絵の中の本と同じだねー」というような話はしたと思います。

しかもやったのは春休み中だったので数ヶ月経っていました。

で、いかにも絵本に書いてありそうな表現でいきなり読み始めてびっくりしたのでもういっかいやらせてみたのですが、もう一度同じようにやりました。
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サッカーの話を少々します。サッカーに関心がないみなさんすみません。

前述のスペインのゴールは、ボランチのマルコス・セナが、司令塔のシャビにパスを送り、シャビからトーレスへラスト・パスが通り、トーレスがゴールした、という展開でした。

このスーパー・ゴールを生んだフェルナンド・トーレスですが、解説者や専門家ぶったサッカー・スノッブは、彼の能力について細かく分析します。「瞬発力がすごい」「スペースを瞬間的に見つける視野の広さ」「相手をはねかえすフィジカルの強さ」「ボールコントロールの正確さ」......

確かにこういう能力は大事ですが、そういう細かい能力があってもゴールできないのは、日本代表を見れば明らか。

私が思うに、マルコス・セナがボールをもった瞬間に、マルコス、シャビ、トーレスが、同じストーリーを思い浮かべ、それを具現化したのです。結局、このゴールを生んだすごさは、「ストーリー力」だと思うのです。

ここがせにょーるさんの洞察のすごさだと感服しました(古い!)。
テレビの評論家を越えていますね、軽く! 
「細かい能力」ではなく「ストーリー力」・・・

サッカー選手の才能とは、いかに多くのストーリーをもっていて、それを瞬時に具現化できるかということに尽きるのではないか、また、チームの強さとは、個々の選手がいかに1つのストーリーを瞬間的に共有できるか、ということに尽きるのではないか。きっと、スペインの選手はものごころつく前から毎日毎日ストリートでサッカーをして、様々なストーリーをためこんできたのでしょう。

↑これはすごい! 鳥肌が立つようです。
この見方から、見事なサッカーエッセイが書けますね。

ストーリー力です。

英語力とはなんぞや、というときに、英語教師は、「単語力」「文法力」「読解力」とかいろいろ言いますが、これらは、「結果」だと思うのです。根本にあるのは「ストーリー力」ではないか。ストーリー力があって「単語力」「文法力」も存在する。というか、そもそも「単語力」とか「文法力」ってなんじゃらほい、とも最近は思い始めています。

ほんと、なんじゃらほい、です!

今まで私は他の多くの一般的な日本人と同じく「単語」を「文法」で組み合わせて「文」ができ、「文」を組み合わせて「ストーリー」ができる、と考えていましたが、そうではないのではないか。

最初に「ストーリー」がある。後からストーリーを分析してみると、ストーリーはまず文に「分解」され、文は「文法」に従って「単語」に分解され、「単語」は「音素」に分解され....ということではないか。(そもそも「文」や「単語」っていう単位だって怪しい...)

分析・分解するのは言語学者の仕事であり、学習者には必要ない。

たしかに分析・分解は学者の仕事ですが、その際に「語は最小単位ではない」というしっかりした意識を常に持っていないと分析できないはずですね。

で、↓の段落ですが、「びゅんびゅん」さんてだれだろー?としばらく考えましたが、どうも「じゅんじゅん」さんのことのようです。まちがいとはいえ、おもしろい!

こう考えると、ブログのびゅんびゅんさんの体験談がよくわかりますよね。びゅんびゅんさんは、英語力すなわち「ストーリー力」はあったが、言語学者のような分析はできない。だから後から振り返ってもどういう単語があったか思い出せないのではないか。

ということを考えてました。

わたしもそう思いました。

(せっかく雄大・壮大な構えの話題に急にせせこましい話になりますが、
いままでの学校英語は「ストーリー力」というものを一切無視して、
さきほどのサッカー解説者のように、「細かい能力」だけを教え込もう、
(試験で)測ろうとしてきた。)

「ことばの最小単位はストーリーだ!」
うーん、しかし、これもなんか言語学をかじった私には違和感がある。「分析」的には「言語の最小単位は音素である」というのは確かだと思うからです。

いや、それはわたしも考えましたよ。でも、分析していくと音素そのものが消えてしまいます。

きのうも大宮の勉強会でシャドーイングの話をしました。シャドーイングの効用を語るために、「発音練習の無意味さ」を話しました。なぜ無意味かというと、音素なるものを捉えることは不可能だからです。ごく簡単に言えば、発語を機械で波として再現すると、語と語のあいだに切れ目がない! さらにまた、「音素」と言われているものには無限の変化形がある!

英語では(たいていの場合)語ごとに分かち書きをするのでいかにも語が最小単位のように見えますが、音節とか音素とか言い出すと、語が最小単位と言うことは怪しくなります。形
態ではなく意味の面では、國廣哲弥さんが言い出した「意義素」などという分解の仕方もある・・・ いわば意味の面からも、最小単位は語よりも小さくなるかもしれないわけです。

しかし、大事なのは「習得するためには分析は必要ない」ということです。分析自体が必要ないということは、「ことばの最小単位は...」という命題自体がmisleadingなのではないかなぁ....でも、やっぱり納得できるようなモットーはあった方がいいか、多読を普及させるためには...

↑ここもその通りです。「言葉の最小単位」を言い出すことでなにがわかってくるのか、怪しいものです。かつてSSSの掲示板で「たこ焼」さんが言ったように「言葉の最小単位は物語」かもしれません。

けれども、ここでわたしは「言葉の最小単位論争」をはじめるつもりはないのです。
わたしは「学問的に言葉の最小単位を定義することにはあまり関心がない。
むしろ、せにょーるさんの言うように、
「言葉の獲得には語を基盤にしてはいけない!」
というモットーとして、かなり有効ではないかと考えています。

(発話を機械で波として記録することができますが、その際に
明瞭な切れ目は文の終わりと始まりの間にあるようです。
ただし、日本語では文は一人の人がはじめて、その人が終わらせるもの
ではなく、一人の人の文は無意識のうちに途中で終わらせて、
相手がつないでくれるのを待ち、相手はまた自分で終わらせてしまわずに、
はじめの人に返し、そうやって文そのものは終わることなく、
典型的には「じゃ、そういうことで・・・」という具合についに終わらせない、
というのが日本語の典型的な「文」のように思われます。
この話はまたいつか・・・)

うーん。

「ことばの土台はストーリーだ!」

これはその通りでしょう。
ただし「ことばの土台は世界だ!」といってもいいし、「インタラクションだ!」といってもいいし、「革命だ(つまり目の間の状況を前に動かすこと)だ!」と言ってもいいという範囲内で「その通り」なのですが・・・

そしてサッカーの土台もストーリーだ!スペインは魅力あふれるストーリーをこの大会でたーくさん見せてくれた。もちろん、ドイツにもストーリーはありますよ。しかし、私はドイツやイタリアのストーリーよりも、スペインやポルトガル、オランダのストーリーが好きなんですよ。野球で言えば、メジャー・リーグで好まれる
ストーリーよりも、ニッポン・プロ野球のストーリーのほうが好きだし、巨人軍のストーリーよりも、オレ竜のストーリーが好きである。って英語と何の関係もないですね。すみませんでした。

さて、関係ないついでに。

今の日本では、このストーリー力が失われつつあるのではないか。こどもの遊びをとっても、ゲーム等は、大人によってすでに作られたストーリーにこどもがのっかっているだけで、こども自身が自らストーリーをつくらない。冒険遊び場というNPOの方から聞いたのですが、現代の遊びはあまりにも大人が介入しているということ
。例えば、「ベーゴマ」をアレンジした「ベーブレード」などはその典型である。原始的なベーゴマは、こどもが様々な手を加えることができ、無限のストーリーが展開できる可能性がある。しかしベーブレードはあらかじめおもちゃ会社が設定したストーリー(すなわちアレンジ)しか作れない。

うーむ、多読は奥が深い。深すぎる....

深いですよ、ほんとにね。そして、まだだれも多読の意味するところを全部は知らないという点では、底知れぬ深さを持っていると思います。

あー、おもしろい!

せにょーるさん、ありがとー!
たむさん、ありがとー!!

みなさん、この話は深いことも深いが、長くなりますよ。どんな感想でも意見でも断想でも結構です。メールをください!!