脱学習法 ????????

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「グリーン」さんが「脱学習法」について書いてくださいました。

酒井先生、こんばんは。何へのコメントなのかよくわからないんですが書いてみます。

この話題はなぜか「何へのコメントかわからない」と自覚する人たちから
メールをいただいています。前にも買いましたが、「学習法」という言葉が
いろいろな想いを引き出すようです。それをみなさんもぜひぜひわたしに聞かせてください!

私は多読もこども式も酒井先生の姿勢にもなんの反論もないし、28年間(実はもう28年も経ってました!)それはまったく疑ったことはないです。先生も永遠に試行錯誤を続けるでしょうし、絶対方法なんてものも存在するはずないですしね。

((((((「永遠に試行錯誤」だなんて、うれしい))))))

でもその先生のホントに意味することは、多読がポピュラーなメジャーな存在になればなるほど、ズレが生じるように思います。例えば私が感じるのは、’100万語読む’がキャッチコピー化して、100万語読めば、私も英語を話せるようになる、という勘違いが生まれる(あくまで一部ですよ)のではないかと言うこと。これじゃ、スピードラーニングみたいだ。100万語は一杯読もう!であって、100万語到達のスピードを競うわけでも、その結果なんて人それぞれなのに。目標は数字のほうがわかりやすいし(会社のパフォーマンス評価然り)そこにいけばなにかが待っているようで安心するのかなあ。でも多読って何万語読んだかで測るものではないと思うんだけど。ブログでislaverdeさんが言ってましたよね?’最近はもー「多読」っていうできあがったものがあると信じて自分で切り開こうとする人が少ない?’と。もちろん、先生はいつでもそうじゃない、といい続けていることも知っています。楽しんで一杯本を読んでいる人がたくさんいることも知っています。

そうですね。語数が一人歩きしてますねえ・・・
そこで、「脱語数」も考えていますが、まだなんとも言えない・・・

量は必要かなあ。私だってイギリスへ行ったときから気づけばもう19年経っているし。この間の読んだ、書いた、聞いた、話した量はそれなりなっているはず。でもその量は自分で計れるわけじゃないので、実際良くわからないし、100万語みたいな数字になるものでもない。量は大事ですけど、10年かけようと100年かけようとそれは個人の問題。私なんか、学習法(?)として多読はしなかった。ただ、私だって考えていることは一杯ある、思っていることも一杯ある、でも英語ではそれが言えない・・・・’の思いから始まっただけです。英語で言いたいことを言いたいと強く思っただけ。そしてイギリスでは時間としては、大学受験の時並みに勉強(机に座って勉強)したけど、それは辛いどころか、時間が過ぎるのも忘れるほど、楽しかった。そして英語が少しできるようになると話が出来る人は確実に増えた。そして色々な人が登場するようになり、全然違うと思ったり、なんだ一緒じゃない、と思ったり。私の根底にあるのは今でも’英語で言いたいことを言いたい’だけなんだと思います。上手くしゃべろうとは思わないけど、より自分の思うことと口から出る言葉が近づけばいいとは思っています。でもそれはイコール英語が上達するではないです。上達することを意識したことも、気にしたことも、遅いとか早いとかも思ったことないです。

勉強が楽しいということはありますよね。(「お勉強」ではない!)
そのことはのちほど「みちる」さんの意見を紹介しましょう。

幸か不幸か仕事で毎日英語に触れていたけど、そこに努力はなく、ただへーーを繰り返し、でも大概はさらっと流し、よほど、うーーんと思ったときは、ためらわず辞書も読んだしWEBへも飛んだ。その時に英和辞書はうーーんがもっとうーーーーんになるくらい役立たずだったし、文法書はそもそも持っていない。ただの興味ですよ。趣味に没頭しているのと同じ。何万語読んでもいいし、本でなくてもいい。ただ面白いなあと思いながら英語に触れ続けること。好きな方法で量を稼ごう、でいいのかな?「多読」が形になるのはなんかちょっと悲しい。xx万語読みました!報告を読むたびに、もちろんほとんど嬉しい、面白かったと報告はされているんですが、ちょっとだけ、テストでxx点とりました!に聴こえるときがある。

そう、ぼくも「面白いなあ」が(好奇心が)すべての知的活動(!)の
源だとおもー

どこまでいっても誰かに教えてもらうとか、方法を探すとか真似るとかじゃないと思うんですけどね。。。どうして英語になると、「学習」がつきまとうんだろう。ん?ここで、またCOBUILDを読んでみた。Studyの本質はなんだ?Studyってそもそも「お勉強」じゃないですね。本来の意味の勉強かな?研究とかリサーチするとか自分でそれなりに時間を費やし没頭し、なにかを知ろうとすることが本質?つまりは受動的じゃないのか。。。「お勉強」はTeachの受身か?

これがおかしい! お勉強はteachの受身形、うまい!

追伸:どうも多読に感化されたらしく、まもなく余裕がでてきそうなので、Paul Austerの本を仕入れてしまいました。日本語翻訳はほとんど読んでいるんですが、オリジナル英語版は、なんだかPaul Austerの英語ってわかりにくそうな先入観があって敬遠してた(いや、あきらめていた)飾り本覚悟で仕入れて最初の2-3ページをさらっと見ましたが、そうでもなさそう。あ、でも英語そのものの難解さと物語の深さは別ですね。J.D.Salinger 「A Pefect day for Bananafish」なんて何度読んでもナゾに満ちている。

はは・・・ なつかしい・・・
わたしの修士論文のテーマだ・・・
(もう何を書いたのか、わすれかかってます。聞かないでください)
グリーンさん、蘊蓄オフでまたねー!