脱学習法 ?????

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「バナナ こと 馬場七尾」さんからのメールです。
実はだいぶ前にいただいたのですが、掲示板に書いてくださったら
きっといろいろな返信が寄せられるだろうと思って、
掲示板に書いてくださいとお願いしたら「了解です」ということだったのですが、
お忙しいのか、まだ投稿がないので、こちらで記事にすることにしました。
ごめんね、ナナバさん!
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さかいせんせい、おはようございます。
脱学習法の話題、大変興味深く見ています。
独眼龍さんの「学習法でなかったら多読をはじめなかった。単なる学習法だったら、応援しなかった」は、至言ですねー。
私にもぴったりあてはまります。

掲示板に投稿する人たちは例外なくみんなあてはまるのではないでしょうか?
なぜなら三原則が出てくる前の外国語学習は「学習」だけだった!
(なんだか矛盾した表現ですが、ほかに書きようがないのです。
 外国語は「学習」するものだった!)
だからみんな「英語学習法として」多読をはじめたのです。
そして、学習法を抜け出した人たちが他の人を応援したくなって、投稿した・・・
注:
ではなぜSSSは英語学習法研究会なんだ?と不審にお思いかもしれません。「多読は学習法とは言えない」と考えていたのは、SSS創設メンバー4人の中でもわたしだけでした。だから、いわば3対1で「SSS英語学習法研究会」という名前になったわけですね。「学習法」という名前は「多読への入り口」として多くの人には立派に役目を果たしていると思います。
注の注:
ただ、わたしがそこに留まることはあり得ませんでした。けれどもこれはまたいつかお話ししましょう。

あることをやることに関して主たる目的と副産物(副次効果)というものがあるということ、多読に関して強く感じています。
私の場合、多読は「PBを読めるようになるため」(=主目的)にやったのですが、振り返ってみると副産物(副次効果)が実に実り豊かだった(である)んだなと。

おー、こう図解されるとひじょーにわかりやすい!

もちろん主目的の「洋書が読める」ようになって、とても助かってます。最近は日本語に訳されていない本でとても役に立つ実用書などを読んでおり、以前はこんなことできなかったですもんね。
ただ、想定外に副次効果が大きかったです。
1)まずは、本について語り合う楽しみ/仲間との交流ですね。これは外せないかな。かつ、かつてはそのコミュニティも小規模だったので、どうやってみんなでもりあがるのか考えるが楽しかった。
という点
2)次に、「勉強」ということに対する姿勢が変化したことかな。
・いつか来るといわれる実りの時期を待って、現在を我慢するやり方じゃなくて、「楽しくなくては続かない」「使える範囲/レベルで(英語を)使ってしまおう」という感じ
・海外の作者にファンレターを出すとか、海外の出版社に「私はあなたの出版社から出されたこの本が好きなのだけど、他に同じ傾向のものあります?日本人なのでよくわからなくって」などというメールを出してしまうなど、そういう積極性まで影響しました
3)さらには「英語=言葉=文化」に実感を伴った興味が広がったこと。
・日本語との音の出し方の違い
・言葉を習得するステップの再体験
・日本語との意味の差異とその下にあるもの
学校の英語の勉強ではおきなかった、知的な好奇心とでもいうものがどんどん広がってゆくのを感じています。

おもしろいでしょう、ナバナさんの分析!
おもしろくてしかも「副産物」を言い当てている簡潔さが小気味よい。

こんな感じで始める前は漠然と「英語ができるようになりたい。PBが読めるようになりたい」と思っていただけ(これが当初の主目的)ですが、それ以外の世界がどんどん広がってきてるなと感じています。とても多読とそこで関わった方々に感謝しています。
『私の場合:多読が、学習でなくなった、とき』なるものをテーマにするとおもしろそうだなと思って、このメールを書き始めたのですが、なんだか、とりとめない話になってしまいました。
これ以上考えても、うまくまとまりそうにないので、とりあえずメールします。
ほんでは
 バナナ こと 馬場七尾

副産物三種のうち、とくにわたしが唸ったのは2です。
「学習」って、たいていはつらいもので、「いつか実る」と信じて我慢するんですよね?
でも、多読で「楽しいから続く」を経験すると、禁欲的なところがはずれて、
「使える範囲/レベルで(英語を)使ってしまおう」
という「自分から出て行く体勢」になるようですね。
これはもうあちこちでわたしが見聞きしています。
バナバさんの「著者にメールを!」もそうだし、
audibleに押し寄せた人たちもそうだし、
Skypeで外国の人と話している人たち、
メール友だちを作った人、
英語でディスクジョッキーをはじめた人!
海外在住に役立てた人・・
多読が単に「まねび、ならう」だけのことだったら、
学ぼうにも習おうにも手本のいない新天地に向かうことはないはず・・・
あー、ちょっと熱くなりすぎましたね。
学習は「当初の主目的」かもしれませんが、単に入り口で、そのうち
「学習は学習ではなくなり」、「それ以外の世界がどんどん広が」る・・・ 
そういうことなんでしょうか?
で、ナナバさんの
『私の場合:多読が、学習でなくなった、とき』
は、おもしろい話題だと思いませんか?
ぜひぜひ、みんなの広場またはメール・フォームで体験談をお寄せください!