脱学習法?? + 志学塾の謎が解けた??

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「くすのき」さんからのメールに書いてあった「脱学習法」という言葉が
みなさんの気持ちを捉えたようです。 反響がすごい!
考えてみると、「学習法」探しで悩んでいる人たちがたくさんいるはずで、
だから脱「学習法」という言葉がその人たちの悩みに直接語りかけるのか?
今回は例の志学塾で多読を「指導」している鬼塚さんから・・・

酒井先生
 多読指導をしない多読講師の鬼塚です(笑)。『脱学習法』を読んで、いて
もたってもいられなくなってしまい、メールしてしまいました。
 志学塾では予備校という性質上、多読は受験のための『学習法』ということ
で紹介しています。しかし、実際に多読の指導(?)で生徒を動機付けする際に
は、「多読は、大学入学後、そして社会人になってから読みたい本を読めるよ
うになるための方法です」と言っています。というのも、大学受験は単なる通
過点に過ぎず、そこを目指す過程で、日本語であれ、英語であれ自由に読書で
きることがどんなに素晴らしいことかを実感することが大切だと思っているか
らです。

まさに「学習法」として入塾してくるこどもたちをどう脱皮させるかが焦点ですね。

 先生もご存知の通り、志学塾にはそれほどの蔵書はありません。初めは生徒
達にとってあまり面白いとも思えない絵本を片っ端から読ませています。しか
し、 20万語、30万語と読み進めるにしたがって、生徒達は多読は楽しいと言
い始めます。英語力がついたという実感が伴わなくても、学校で学ぶ文法を使
うことなしに英語の本が読めることである種の自信のようなものが生まれてく
るのだと思います。そして、志学の本が物足りないと感じるようになるとペー
パーバックや英字新聞、ホームページなど英語であればなんでも(時には入試
問題を多読する生徒もいます)、興味のあるものを持ってきて読もうとしま
す。もちろんそのまま読めるようになる者もいれば、GRに戻っていく者もい
ます。しかし、ここまで来ると『多読』は単なる学習法ではなくなっているは
ずです。実際の英語力とは関係なく、彼らは英語が、もしくは英語で読めるの
です。どれほどの理解をしているのかは外部からは知ることは出来ませんが、
彼らは読むことで得られる情報を楽しんでいることには間違いないと思います。

20万語から30万語で脱学習法へ、とか、
英語であればなんでも興味のあるものを持ってきて読もうとするとか、
大学ではなかなか達しない域です。目標にはしているのですけれどね。
(英語科の目標は critical thinking のできる autonomous learner)
それよりもなによりも、ここでは最後の「どれほどの理解をしているのかは外部からは知ることは出来ませんが」というところです。これは塾の先生がいう言葉でしょうか?! 外から(点数で)たしかめることをはなから放棄して「塾」と言えるのでしょうか!
これでは志学塾は「脱塾」のそしりを免れないのではないか?
日本の塾の将来が危ぶまれる! 

 先日、『志学塾の講師はまともに指導をしない』という、嬉しいような、悲
しいようなコメントを頂きましたが、今日、なぜその志学塾の多読のスタイル
が生まれたのかがわかったような気がします。それは、多読を導入しようと先
生にお話を伺っている際に、先生が「他の英語の学習法は指導者が必要だが、
多読には必要ない。ただ学習者が楽しく読めるようにするだけだ」という内容
のことをおっしゃられたので忠実に守っているだけなのです。それが今考え直
すと、多読についての知識がほとんどない頃のことなので、先生の意図を間違
えて解釈してしまっていたというのが本当のところなのだと思います。志学の
多読のスタイルは、その勘違いが、予備校と沖縄という環境の下で偶然にもう
まくいったのではないでしょうか。

これで謎が解けました! が、新たな謎が・・・
「ただ学習者が楽しめるようにするだけ」と「聞いて」も、
フツーは何もしない方向には行かないんじゃないでしょうか?
フツーのセンセーは「どうやったら楽しめるか」を真剣に考えて、
必死で環境を整えたり、なぜ読まないのかをそれとなく探ろうとしたり、
乏しい感想やほとんど物言わぬ表情からなけなしの情報を読み取ろうと涙ぐましい努力をするほうへ向かうのではないだろうか!!!
そうした努力を惜しまないことで、フツーのセンセーは多読授業がが思うように行っていないことのいいわけにするもんじゃあ、ないのか?????
志学塾ではなぜそうした努力の方向ではなく、放っておく方向にいきなり向かい、
かつまたうまく行ってしまうのか?????

 ここで話を『脱学習法』に戻しますが、「指導者のいない学習法」は客観的
にみると学習法とは呼べないのではないでしょうか。指導者は直接指導する人
間であっても、テキストのような物を想定しても構いませんが、指導するとい
うことは、学習者を自らが意図する方向へ導こうとすることだと思います。

言われてみれば、そうですね。
フツーのセンセーとしては、ダツボーするしかない。
気がつきませんでした・・・

『多読』において指導者と位置づけられるものはないはずです。多読をしてい
る人は、ただ本を読み、楽しんでいるだけです。読んだ本から何を学ぼうと、
それは読者の自由です。例えば、飛行機でとなりに座ったアメリカ人と話をす
るときに、「勉強になるから話そう」と思っても、「ネイティブの友達がいた
らカッコいいな」と思って話しても、結局は相手のことを知りたいと思わなけ
れば会話は成立しないのではないのでしょうか。したがって、『多読』では、
本を読む人が『学習』していると思っている間だけ『学習法』なのではないか
と思います。

もう、何も言えません・・・ おっしゃるとおりです・・・
実は東京都立の高校の先生方が多読授業の可能性を探る研究会を発足させました。
(都立高校特有の話題も出ますが、それでかまわなければだれでも参加可能とぼくは理解しています)
その会の名前が「多読支援研究会」というもので、
その名前を聞いたときに「してやられたー!」と思ったのですが、
鬼塚さんの書いてくださったことも同じですね・・・

 勝手なことを長々と書いて申し訳ありません。単なる思いつきなのですが、『多読』には実際指導する内容、つまり多読を始めた学習者が学ぶことは、『多読三原則』だけしかないのではないかというあまりにも大胆な仮説にワクワクしてしまいました。今度沖縄に来られたときにでも先生のご感想を伺えるのを楽しみにしております。
乱文をお許しください。
 鬼塚
ちなみに、今までの生徒の話を聞く限り、日本語の読書が好きか嫌いかという
ことは多読には関係ないようです。

鬼塚さん、ありがとー!!!!
まったく、いいだしっぺのぼくがわかっていなかったと思います。
けれども、わたしには自分の不明を恥じるなどという「羞恥心」はありません。
鬼塚さんの表現を借りるなら、多読の普及でわたしが貢献したことと言えば三原則だけでしょうね。つまり、多読授業も含めてほかのことはすべて掲示板やオフ会や講演会でお会いしたみなさんが作ってきた。わたしはみなさんの感想や意見や思いをごく一部だけつまんで、あちこちに書いてきたにすぎません。最初からみなさんに「教えてもらっている」という気がしているので、鬼塚さんに「教えられ」ても、ちっとも恥だなんて思いません。むしろ、またおそわった!とニマニマしています。
これぞ「多読」の醍醐味ですねえ! 
みんなで発見していくんですねえ・・・
追伸
この記事のカテゴリー名がそもそも「指導」です。
「こども式」なんていいながら、不徹底でしたね・・・
いずれMovable Typeというものに変更して、このサイトの模様替えを
考えていますが、そのときは「指導」とか、「4技能」によるカテゴリー分けはやめます・・・
みなさん、こんごともよろしくご指導、ご鞭撻をお願いします・・・