すっごくいいぞぉー!

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続いて、いわゆる「単語」のいわゆる「意味」について・・・
「islaverde」さんは実に切れ味の鋭い人で、好みもうるさい!
その舌鋒の鋭いこと、若草物語に出てくるライムの塩漬けってこんな?というくらい。
今回ご紹介するのは、わたしと意見がおなじとか、ちがうとか、そう言うことではないです。
とにかくislaverdeさんの文章の切れ味を紹介したい。

いきなりですが、英語のドラマや映画を字幕つきで見続けたら、ヒアリング力が上がって、いつか字幕なしで映画が見れるようになるんでしょうか?
答えは、もちろん「全然ならない。」・・・もしそうだったら私は今頃英語だってスペイン語だって何でも理解できるようになっているはずだー。
なんで理解できるようにならないのかと言うと、字幕があるからそれに頼ってしまって、英語を理解する脳の部分(どこかは知らない)がしっかり働かないからだと思う。
これが、何かの事情で字幕なしの映像を見なきゃいけなくなったとすると、もう、脳がフル回転するのが分かります。(そしてどっぷり疲れる。)もちろん分からないところも沢山あるけど、分かるところを拾い上げて、それをつなげてつじつまを合わせて行く、という機能が働きはじめるような気がします。
だから、字幕なしで映画を観たい人は、字幕なしでとにかく見続けると、そのうち理解できるようになるとは思います。ただ、いかにもしんどそうだし、映画を楽しみたい気持ちもある私はなかなか実践できていないのですが。
英語字幕ならよさそうと考えていましたがある時「読む方に集中してしまって、耳に入った英語を理解する力は上がらない。」と言われ、今はすごく納得しています。
辞書も同じじゃないのか、というのが今の私の考えです。
辞書をひくという行為自体が、ひく回数に関わらず、英語をリアルタイムで理解する力を阻害すると思います。分からなかったら辞書をひけばいいと考えていると、飛ばし読みをしながら理解して行く力は多読前と変わらないはずで、それで多読をしても効果がない、という結論になってしまうのがすごく心配です。
もちろん、多読三原則では辞書をひかないとなっていますが、このくらいだったらひいていい、とか、ある程度読めばいいとか、英和はダメだけど、英英ならいい、とかいろいろあるようで・・・
わたしは上記のどれにも反対です。
本を読んでいて、あーこの単語が分かったならばすっきり理解できるだろうなあと思うことは、たくさんあります。そして辞書をひいたこともあります。そしてすっきり理解できてしまうんです。(使ったのは、なんと、SSSではすっかり悪者の英和辞書だ!理由はいちばん近くにあったから)
なら問題ないじゃん、むしろ役に立ってるじゃん、となりそうですが、やっぱりそれではダメな気が最近するんですよねえ。
その理由は、前にも延々書いたように、その場で分からなきゃ、実戦では使えないーという一言に尽きるのだけど・・・
あと思いつくまま・・・
英和の意味は間違いが多いとか、意味を誤解してしまうからダメとか、辞書をひいてはいけない理由がいろいろ説明されていますが、いまいち説得力に欠けるというか、実際辞書を引いて「分かった!」という経験をしてしまうと、なんで?と思うのは当然と思います。
個人的には、英和の日本語はかなり工夫して書かれているし、英英の英語もすばらしいかと言われると・・・よく分からない説明もけっこうある気が。グーグルイメージだって辞書を禁止された故の非言語コミュニケーションへの逃避か?とまで考えてしまう。意味だって、単語の意味を知りたいだけなら、そこまで間違いはないと思うのです。
でもねー、違うんですよ。言葉っていうのは辞書なんて使う物じゃないんですよー。絶対に。
だって、会話しているときはリアルタイムで事を進めていかないといけないんだから、辞書を引く行為が根本的におかしいと誰もが思うはずで、どうでも良い単語だったらそのままに、会話の重要な言葉だったらそれ何?と聞き返すのが自然な流れだと思います。
本を読んでるときもリアルタイムで理解していかなきゃ、読書ではない、と思うんですよね。辞書を引いてしまったらその時点で、「快読」ではない、「解読」になってしまうような気がします。
辞書っていうのはコミュニケーションとしての言葉とは全然ちがう世界にある物として位置づけておくと辞書の呪縛から逃れられるかなーと考えてみたり。
どれくらい違うかというと、本を読みながら辞書をひいてもいいのか?というのは、本を読みながらコーヒーを飲んだほうがいいのか?という質問と同じくらい関係ない(と信じているのだけど)。
えーと。例えば、「ダビンチコード」を読んだ時、最後の晩餐の絵の説明が出てくるシーンで、私はネットに飛びついて絵の画像を引っ張り出し、ダビンチの伝記やその時代について書かれているサイトを読みあさりましたが、それは、本の理解とは関係ないもので、ムダ知識とまでは言わないけど、個人的な趣味に過ぎないというか。
辞書に書いてある意味は、その言葉の総合的な意味を短くまとめてあるので、その本に出てきた局地的な意味には対応してないから、辞書に書かれた意味を知る事も、また趣味の世界といってもいいかなと。だって、dogを「ワンと鳴く動物」(我ながらひどい文章)と書いてあったとしても、作者が本にdogと書いたなら、他の言葉では置き換えられないから、その言葉を使っているんだと思います。。それは難しい言葉でも同じで、英英辞典の説明の方がふさわしいと作者が思ったなら、そう書くんじゃないかなと。
で、辞書のいる(?)世界っていうのは、言葉そのものを研究している人のところと、あと無理矢理考えてみたら、こんな感じ?
例えば、私がロシア語で書かれた文書を理解しないといけなくなったら、ロシア語の辞書をひきまくって、えーとこのNがひっくり返ったのは?と一語一語「解読」していくしかないと思います。理解できるかどうか分からないけど、それしか方法がない。
余談で、辞書を引きながら英語を読むのが正しいと思っている人を見かける度に、ロゼッタストーンを解読した学者とイメージが重なってしまう・・・日本人全員の辞書引きパワーを結集させたら線文字Aくらいすぐに解読か!?(いかん、いま読んでいる和書の影響が・・・)
以前酒井先生に『辞書をつかうやり方は「考古学的アプローチ」ですね。」と言ったら「それ絶対書いてね、いつか」と言われたけど先生ご本人はもう覚えてらっしゃらないだろうなあ・・・
だから辞書も違う世界では存在価値があると思うし、辞書を悪者にするんじゃなくて、悪いのは、辞書が何のためにあるのかも理解しようとせず間違った方法で使っている人の方じゃないんでしょうか?
分からないまま読み進めるのはけっこうストレスだし(そうしないと力はつかないのは分かっているけど)、特にレベルの高い本を読み始めるとすべての単語を英語のまま吸収していくのはちょっと無理だとも思います。
ま、私の辞書を引いた例は「ちょっとズル」をしたと自分では位置づけていますが(言い訳か?)そうすることで英語の力がつくとは今はこれっぽっちも考えていないし、本を読んだ瞬間には理解できていなかったからダメだったと思っています。
一般向けの本でこの単語がわからないから本全体が理解できない、っていうのは実はあんまりないような。単語のせいにしているだけで、実は内容が分かっていないという事の方が多い。理解できた、と思っていても、こちらの知識不足で、作者の意図を十分汲み取れていないこともすごく多いはずで。・・・というと私は今まで本をきちんと「理解した」ことがあるのだろうか。うーむ。
所詮、分かるようにしか分からないということでしょうか。あとは努力だ!

islaverdeさんのブログにはもっともっといろいろなことについて
いさぎよい文章が載っています。
あ、それからislaverdeさんは「多言語」とくにスペイン語多読の
リーダー(?)です。できれば近いうちにそちらで、また登場してもらいます。
islaverdeさん、やっと載せたよー!
http://islaverde.blog76.fc2.com/blog-category-8.html