学校英語を洗い流す

字幕なし多観について 「ふわっと理解」にツイート

先日のブログに「だれでも多読武蔵野」サークルのBさんの感想を
書きました。その記事をFacebookから跳べるようにしたところ、
Kさんがこんなコメントをつけてくれました。

「ふわっと」できない性が…。最近乗り越えられそうです。

わたしは「乗り越えられそう」という部分に飛びついて、
詳しく知らせてくださいとお願いしました。いただいた報告から
「ふわっと理解」に関わるところだけを引用します。
報告全体は100万語通過したらフォーラムに投稿してくださるとのことです。

今回、英語のまま理解する大切さがやっと体感できました。
70万語を過ぎてから今年に入って毎月2万語前後しか読めませんでした。
受験英語はさほどやってきたつもりはないんですが、職業柄、このasは何? wouldは何?とひっかかります。わからない単語も調べてました。
そんなことしてるから物語が楽しめません。やさしいストレスなく読めるものをたくさん読んでinputしてこの癖を克服しなくてはなりません。
「下手に英語をやっていたために邪魔をする」というお話がよくありますが、私はそんなにできるわけではないし当てはまらないだろうと思ってました。

「木を見て森を見ず」--文法や訳語に気をとられると、物語は分からなくなります。
また、「自分は分かっているのだろうか?」と気にし始めたとたんに、
物語はおろか、英語を読むことさえ疎ましくなります。

「字幕なし多観」の効果は、ある面で「聞き読み」に似ています。
朗読を聞きながら文章を読むと、日本語に訳したり、文法的な吟味をしている
暇がありません。分からないところは放っておくしかありません!

「英語をやっていたために邪魔をする」 ・・・
「わたしはそんなに勉強しなかったから邪魔されないだろうと考えていると
意外なところで実は脚を引っ張られていることがあります。
フォーラムでkatobushiさんが書いた「学校英語のしつこさ」ですね。
それはそれはしつこいのです、学校英語は。そこがおそろしいところ。

Kさん、とても大事な報告をありがとう!
100万語通過のお祝いが待ち遠しい!!

字幕なし多観について ふわっとした理解!?

中央線沿いのある駅近くで、だれでも多読サークルが尽きに2回、開かれています。
5月10日の会にはわたしも参加して、みなさんの読書の様子を聞いて、
次回にNPOからどんな本を貸したら参加している一人一人が楽しく続けられるか
考えます。

で、終わるといつも何人かでお昼を一緒に食べます。
10日は、男の人4人と、女の人6人に別れた席になりました。
次のBさんのメールは、その女性たちばかりのテーブルでのことのようです。

5/10・ オフ会女子部の皆さま
昨日は、たくさんお話しできて楽しかったです。
私の多読法について、文章を一つひとつ訳さないで、想像力だけで読んでいるとお話ししました。それが出来るようになったきっかけの本を紹介したのですが、タイトルを覚えていなかったので、お知らせします。「The invention of Hugo Cabret」と「Wonder struck」でした。
これは、文章と絵が数頁ずつ交互に出てきて物語が進みます。絵の部分には一つも文章が付いていないので、絵を見ながら、こういうことを言っているのだろうと想像します。次に来る文章は絵の続きが展開されます。これを何度も繰り返しているうちに、今は文章なのか絵なのか気にならなくなります。つまり文章も絵も「ふわっと」に変換されて、共通のものとなって頭に入ってくるようになったのだと思うのです。
今では、その「ふわっと」がどの本にも適用されるようになり、毎回、読み切ったつもりで、読後の感想を嬉しそうに話して、皆様にご迷惑をおかけしています(笑)。

Let’s enjoy happy reading together!!

なんというぴったりな表現でありましょうか・・・! ふわっと!!

(なお、迷惑でもなんでもありません。読んだ本を楽しそうに語るのをみているだけで、
聞いている方も楽しくなります。うれしそうだったら、こちらもうれしくなります。)

文章も絵も「ふわっと」に変換されて、共通のものとなって頭に入ってくるようになったのだと思うのです。

要するにわたしが最近「字幕なし多観」の話題で言っていることはこれなのですね。
ことばは絵から出てきて、絵に返るもの--その二つは切り離せないのではないか?

(そしてここでいう ことば は 文字 ではありません-- おもに 音 です。
「おもに」 の意味はいずれ書きますが、忘れてしまうかも知れないので、
大事なことだけ・・・ ことばは音です。文字はことばのごく一部を表しているに
すぎません。けれども場面と音を両方備えたことばをたっぷり吸収すると、
文字を読んだだけで場面も音も想像できるようになります。
文字だけの読書が楽しめるのは、文字から「場面と音を両方備えたことば」が
想像できるからだと思われます。

(結局長くなっておりますが・・・)

逆に場面と音を両方備えたことばをたっぷり吸収していない場合は、
多読は「多読的精読」には至らない--つまり、読書の楽しみが味わえない
可能性があるようです。その場合は次第に多読にブレーキがかかるようです。

このあたりは Graded Readers (段階別書き換え本)ばかり読んでいると
どうなるかということに関係してきます。それはまた近いうちに、と思って
いますが・・・)

流されないために・・・ フォニックスに関するメモ その2

Phonicsには反対意見があります。wiki で検索してください。

wiki の内容をごく簡単に紹介すると、まずwhole language からの反対意見が
あります。whole language という考え方は、ことばを一つ一つの単語や文法に
分解するのではなく、ことばを全体として吸収しようというものです。
当然のことながら、単語を音素に分解して教えようという Phonics は
whole language の立場からは認められないというわけです。

一方で、アメリカ議会が移植して、教育省が関わって行った調査では
whole language と Phonics をはじめとするさまざまな教授法について
調査した結果、初期の読書力を高めるためには Phonics がいちばん有効と
結論を出しました。

わたしはそうした「調査」を簡単には信じません。
それは Paul Nation という人の 「使われている語の95%を知っていないと
本を読み通すことはできない。98%を知らないと楽しめない」(だったかな?)
という、先生たちに広く信じられている説をわたしが信じないのと同じです。
人間の実際の姿を描き出す調査なんていうものはアメリカ議会が委嘱しようと
教育省が関わろうと、できるはずがない。

(百歩譲って、Phonics はアメリカのこどもたちには有効だとしましょう。
けれども日本に持ってきて有効だということはありえません。
前回話題にしたように、日本人のこどもには Phonics の前提となる
音の土台がないのですから。)

わたしは調査や数字や試験や資格なんぞより、信頼できる人の「勘」を
はるかに信じます。

たとえば、先日Oxford Reading Tree の絵本シリーズを作ったRoderick Huntさんと
Alex Brychtaさんが来日した折に、Oxford University PressのKさんが
招待してくださって、Brychtaさんの奥様とKさんとわたしと5人で食事をしました。
その席で、ORTにはPhonicsのシリーズもあるのですが、
HuntさんもBrychtaさんもフォニックスには反対だと言っていました。

ところで、Phonics がうまくいく、あるいはうまくいくように見える場合は
たしかにあるのでしょう。たとえば識字障害のあるこどもには有効な
場合があるかもしれません。

また、児童英語教室などでは、こどもはきっと遊んでいるような気分で
フォニックスの練習を楽しむかもしれません。そうすれば楽しく英語の音に
触れることができることになって、英語に対する親しみ、楽しみ、吸収が
ともに高まるかも知れません。児童英語教室などではほかの遊びも入るので、
フォニックスの空回りが見えにくい可能性もありますね。

ここまで Phonics の具体例を出さずに話を進めてしまいました。
筋が見えにくくなるといけないと考えたからです。
そのためにフォニックスを知らない人にはわかりにくかったかな。
申し訳ないです。

補う意味を込めて最後に一つだけ書いておきます。
英語はラテン語系のことばとゲルマン語系のことばが積み重なって、
入り組んでいます。その様子はちょうど日本語に和語と漢語があって、
一つの漢字に 音読み と 訓読み という複雑な読み方が存在することに
似ていると思われます。

あまりこの話題に関係なく聞こえるかな? 要するに、英語と日本語は
どちらも 綴り(文字) とその 読み(音) の間に一対一対応がないところが
似ているというわけです。

またいつかもっと詳しく書く機会があるといいのですが、それはなかなか
期待しがたい。そこで、フォニックス歓迎ばかりでは危ういという意見が
あったということだけ覚えていてくださるとうれしい。フォニックスはいいそうだ!
というのですぐに飛びつくのは、特に日本ではやめた方がよいとわたしは
思います。

流されないために・・・ フォニックスについてのメモ その1

英語ごっこの大物を忘れておりましたので、急いで追補。

フォニックス Phonics は、小学校への英語導入とともにかなり注目を
集めているようですが、先日参加したシンポジウムでは、
文科省に近いと思われる大学の先生が「フォニックスではなかなか
成果が上がらない」という意味のことを言っていました。

それは無理ないだろうとわたしは思います。
そう思う大きな理由が二つあります。その二つを無視してフォニックスを
続けるのは英語ごっこの空回りになる恐れがあります。

*一つ目はフォニックス活用の環境です。
アメリカやイギリスやオーストラリアなど、英語を主な母語とする国で、
こどもたちが音と文字を結びつけやすいように利用されています。
つまり、こどもたちは日常生活の中ですでに音は使っているわけです。
つまりすでに知っている音を土台に、文字の読み方を覚えていくのですね。

でも、日本にはそもそも英語の音がない。
したがって、フォニックスを利用できる土台がないわけです。

*二つ目は、フォニックスそのものの矛盾です。
英語国の文字学習にはフォニックスが利用されますが、
同じようなアルファベットを使っている国がすべてフォニックスのような
教授法を使っているわけではないようです。

なぜか? 英語以外のヨーロッパのことばにはフォニックスはいらない!

英語にはフォニックスが必要なのは、英語の綴りとその音声化が
一筋縄ではいかなくて、「音を知っている=文字が読める」とはなりません。
ヨーロッパ大陸の言葉はわたしの知る限りたいてい音と文字のつながりは
「一対一対応」していて、音を知っていると、それを文字と結びつけることは
とても簡単で、文字を見て音声化することも簡単です。

ところが英語は音と綴りの間に一対一対応なんていう規則性がないので、
「音を知っている+文字が読める」という風にはならない。
そこで、音と文字を結びつけるためにフォニックスが利用されるわけですが、
これは矛盾です。

規則性が十分ではないのでフォニックスで規則性を教える?

以上二つの理由から、フォニックスを日本で利用するにはかなり限界が
あることを覚悟しなければならないと考えています。その点は実は
英語国でも反対があるようです。

また、限界を心得れば、ある程度の利用は可能かも知れません。

英語国の反対意見と、日本での利用の可能性についてはあした・・・

 

流されないために・・・ 英語ごっこについて

外国語を教えるなんて、できません。
やってしまうとひどいことになる・・・
つくづく「すまじきもの」にして「すさまじきもの」だと思います。

どこがすさまじいかというと、鳥肌が立つほど「ごっこ」なのです。
ちっとも気がつかずに25年もやって、こんなことを言い出すこと自体、
「すまじきもの」だと思いますが、しょうがない。
やっちまったことをちょっとでも帳消しに近づけたい。

英語ごっこの典型いくつか並べます。
ロールプレイも日本の「英会話ごっこ」の主流ですね。
何の足しにもならないと思うけれども、何かやっている気にはなれる?
「チャンツ」とかいうものもよくある。
キャサリン・グレアムさんの言い出したchantsは全然違うものです。
日本ではリズムも音遊びもない文章をわけもなく区切って音読することを
チャンツと呼んでいて、NHKの英語講座だけじゃなくて学校でもよくある「ごっこ」。
*それからパターン・プラクティス
これは形を変えて、今でも英会話学習の主流かもしれない。
少なくとも30年前のベルリッツはそうだった。

そんなことを言ったら、英和辞典単語暗記問題集発音記号
英作文も、試験試験対策資格資格取得も機械的作業の積み
重ねであって、実益はなにもない、すべて「ごっこ」でありますな。
世の中では実益が「あるかのように」暗黙の了解があって、
こぞって「ごっこ」にいそしむわけです。

そういう「ごっこ」は架空の人工物で、「世界と物語」から切り離されていますが、
対する多読・tadokuのよいところは、実際に使われている材料で外国語を
それぞれが勝手に吸収獲得することですね。実際に使われている材料
すなわち本や放送やドラマや映画には世界があり物語がある。現実とつながっている。

ごっこと多読・tadokuは、箱庭と実際の世界くらい違うのですね。
楽譜と実際の音楽くらい? レシピと実際の料理くらい?
スポーツのルール集と実際の試合くらい?
いやそんな比喩は楽譜やレシピやルール集に失礼ですね。
そもそも外国語の学習に使われる教科書や単語集や問題集は
比べものにならないくらい「架空」のものであります。

ごっここそが楽しいのだという人は別ですが、できれば「ごっこ」に
流されないようにしましょう。流される時はそのことを意識して・・・