Tadoku三原則(仮)について Kakkoさんからのメール・・・

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このサイトの良いところは、みなさん歯に衣着せず、自由に物を言うところです。
それでわたしはずいぶん助けられている・・・
かつてオシツオサレツさんがわたしの投稿を見て、すぐに
「さかいさん、あれはだめ!」と言ってくれて、わたしはさっそく削除しました。
つい最近では「賞味期限」ということを書いたら、すぐに何人かの人から厳しい助言が
あって、(pmamaさんはとくに厳しかった!)このときもすぐに投稿を削除したのでした。
今回の三原則についてもSさんが「Tadoku三原則はいらないと思います」とか、
プリンさん、はねにゃんこさんが、多読三原則は分かりやすかったけれど、
Tadoku三原則の②と③は分かりにくいと言ってくれました。
そして数日前にNPO多言語多読の事務局宛てにKakkoさんが・・・

 

「町の名前をひとつ」をしばらく拝見していなかったのですが
プリンさんのご意見、のところからさかのぼって、まとめて読みました。
①以外は、何のことかわかりにくい、ごもっともですね。
私も三原則ではないのですが、Tadokuの標語みたいなのを考えてみました。
ことばの氷山とbitesizeとは無関係ですが、読むだけでなく発信に、という「多読」とは違う心がけのようなものです。
交通安全の標語みたいに、いろいろ出てもいいのかな、と思って。
自分がやっている生協のサークルでは、こんな感じになっているかな、と思っています。
・仲間と一緒に
・どんどん使う
・まちがいなんて気にしない
☆みんなちがってみんないい

いいですね!
これで決まり・・・とはまだ言えませんが、これなら「間違うことは学習者の特権」というきのこさんの意見も入っているし!
「みんなちがってみんないい」--これを言いながら実は権威主義的ということもあるので、
いわばわたしの中では「汚れたことば」なのですが、
それを別にすればこのことばも活かしたいですね。あるいは何かちがう表現をする?
こんな具合にみなさん、ちらっと考えただけのことでもいいし、三原則全部でなくてもいいし、
思いついたことを送ってください!
連絡先・・・
Twitter: @kunisakai
Facebook: 酒井邦秀
メール: tadokuorgあっとまあくgmail.com (NPO多言語多読事務局宛て)
sakaikunihideアトマアクgmail.com (さかい個人宛て)
LINE: さかい@多言語多読 (まだ使い方が分かってません!)
で、Kakkoさんはおとなに多読支援をしていますが・・・

先月、初めてwritingをやってもらったのと同時に、一年近く多読をやってみての感想を書いてもらいました。その中に、こんなコメントがありました。
「英語から遠くに暮らしていた私にとって、月に1回でも英語にふれる機会があるのは大変新鮮で楽しい時間です。特に ”うまくなくてもいい” といわれるのは気が楽で、ORTをずっと読んでいてもいいしReadingでもカタカナの発音でも誰も笑わないし、とても気に入ってます。今の目標はoxford owlに登録したので、それを読みながら練習することと(今は始めると猫が来て「どうしたの?何かあったの?」とうるさくなくのでなかなかできません)好きな絵本を英語で読むこと(ものぐさトミー)もっと先には外国の人と話してみたいと思います」
「うまくなくてもいい」と言った記憶はありませんが、どこかでそんな感じのことを言ったのかもしれません。それが、その場の居心地をよくしているとしたら、よかったのかな、と思っています。月1回集まるだけで、一歩進んだという考えです。

これも標語にしたいくらいですね-- 「うまくなくてもいい」!

「仲間と一緒に」やるからには「カタカナ英語でも笑わない」雰囲気も大事なポイントだと気がつきました。いままで「カタカナ英語から抜けるには」という話ばかり聞いていたので、それを否定することで傷つく人がいるという考えが抜けてしまっていたのです。それで私の標語には「☆みんなちがってみんないい」を金子みすずから拝借しました。みんなとやっていたら、どの人も自然に通じやすい発音になっていくのではないか、という期待が現在はあります。それと、英語を使う目的も目標もそれぞれ別々だろう、という意味合いです。

ここはむずかしいのです。みんなちがったら、ことばは通じなくなります。ことばの役割を果たせなくなる・・・
そこで、とてもむずかしい道を歩む必要があります。つまり・・・
一方では、カタカナ英語でもかまわないからどんどん「どんどん使う」
その一方、できるだけたくさんの人に伝わるように「共通化」を忘れない
この二つは矛盾します。「多読のパラドックス」ですね。
けれどもぼくたちはこの矛盾を抱えたまま、「間違いを気にせずに、しかし伝わりやすく」を実行することになります。

それに関連して、酒井せんせいがジャクリーン・ウィルソンさんへの憧れを表明した上に、ディクテーションまで要請してしまったのはちょっとまずかったのではないかと危惧しています。数秒ならともかく、何分もあるものを「真面目な英語学習者」(先生のブログの愛読者にはそういう方もいらっしゃるのでは?)の方々が先生にほめてもらいたくて一生懸命時間をかけて書き起こしているかもしれない、と思うとそれは気の毒に思うのです。下請け仕事ですから、せめて顔の見える人に分割してお願いしたらどうでしょう。
参院選が近づいている今、選挙権のある人はもっと違う情報を追うことに時間を費やしたほうがいいと思います。

ディクテーションの危険は要請した記事にも書きましたが、あれでは足りなかったかもしれませんね。
たしかにあの長さは大変です。それを一生懸命やったらかなり長い間多読をしていて、「いい加減な人」でも
ディクテーションに毒される可能性はある・・・ うーん、ここは少々反省します。Kakkoさん、ありがとう1

Tadokuは自分が話す言葉につながるので、どこかで一度「憧れ」と「実用」を整理してみる必要もあるのかな、と思いました。
私の観察だと、学生時代に英語関係の学校を選んだ人はやはり英語への「憧れ」が強く、現地の人(英米、それも白人に限る)と同じように発音できることへのこだわりが強かったようです。英語が苦手な私にはちょっと不思議だったのですが、憧れのスターと同じように歌ったり、バッティングのフォームを真似たり、ギターの弾き方を真似するのと同じなんだな、と思うと納得できました。
ただ、単にイントネーションや雰囲気を真似る、というのと「完コピ」するのではかかる時間も違いますし、声帯模写が生まれつき得意な人や少し真似をするのにも時間がかかる人、など個人差も出てくるでしょう。YoutubeのRead Aloudを皆さんにすすめている私も、ほどほどの真似でいいんですよ、というメッセージも紹介する時には必要かなと思うようになってきました。

「完コピ」というのですか? それをめざすのはそんなに時間がかからないと思われます。
むしろ適当にカタカナを混ぜていると、おそらく永遠にカタカナを抜けられない。どうもそんな気がしています。
ほどほどの真似でいいですよ、というのはよい勧め方だと思いますが、大事なのは「ほどほど」が楽しいか、
楽しいとして「少しずつ英語らしい音とつながり方になっていくか」を見守ることだと思います。
なお、日本人らしさを失うという心配はいりません。見た目があるし、日本語らしさも全部消えるわけではないしね。

西洋文明を吸収しようとした明治時代、占領軍の統治下だった大戦後、イギリスやアメリカに憧れたのはよくわかるので、その時代に育った世代が主にこの2国の英語を真似したかったのは仕方ないと思います。しかし、どうもその傾向は21世紀の現代日本にも引き継がれているようです。
「うちの子、やはりブリティッシュにしたわ」(幼稚園児の英会話スクールの話)「フィリピン人のオンライン英会話なんて訛っているからダメよね」というのは私が最近直接聞いた話ですが、脱亜入欧という観念が何世代も引き継がれているようにも感じてしまったのです。
私は、上の世代、同世代、はともかく若い人や自分の子どもの世代には英語に「きれいな英語」と「訛っている英語」があり、旧植民地の英語が劣っている、などとは考えてほしくありません。しかし、中高生にもそういう傾向が見られます。これは残念ながらほとんどの場合、親世代(の憧れとコンプレックス)の影響によるものです。

脱亜入欧は今となっては時代錯誤ですね。
ここでも先ほどの矛盾をわたしたちは抱えたまま前に進むことになります。
つまり、「みんなちがってみんないい」けれども、完全にちがってしまうとことばが通じなくなる。
そこで、しばらく前からわたしが言っている 「怪しい東アジア人」 あたりを頭に置いてカタカナ英語を抜けるといいのではないかな?

長くなってしまいましたが、多読が仕事で英語を必要とする人たちに受け入れられたのは、仕事でコミュニケーションを取るのに実用的な方法だったからでした。今のTadokuも仕事や趣味でコミュニケーションを必要をしている人のためだと認識しています。言葉をどんどん吸収して、どんどん真似て考えを交換することができるようになることが目標なので、その言葉がどのように発せられるかには多様性があったほうがいいのではないかと思っています。そこが酒井せんせいご本人も含む個人の「憧れ」と「実用」は整理したほうがいい思う理由です。
「実用」では発音も文法の間違いも最初は気にせず、Tadokuで吸収した言葉を使ってどんどん自分の考えを出すほうを優先してほしいです。

Kakkoさんとわたしの言っていることは同じでしたね。
憧れと実用--その二つをそのまま体して外国語による意思伝達をめざすわけですね。

個人的には、bitesizeもことばの氷山も納得できる概念で、実は自分でも両方の事例を集めていますので、そのうちお見せします。
でも、普及のためには「わかりやすく」「敷居を低く」がやはり大事だと思いますので、新しい三原則はこの二つを誰にでもわかるように説明できるようになってから決めてもいいですよね。

まったくその通りです。事例をいつか見せてくださいな。

先日みなさんにお願いした「ディクテーション」についても、まもなく新しいお願いをします。
bitesize ということをもっと理解するためです。お楽しみに!
Kakkoさん、ありがとう!!!

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