Tadoku三原則 ①仲間といっしょに

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る

「仲間といっしょに」という原則にはそうだ、そうだという「我が意を得たり」という
感想も多いけれど、独りオオカミみたいな人たちからは 「オエッ」 という反応もいただいています。

きょう紹介するのは前者・・・

わたし自身はどちらだろう?
無理矢理みんなと同じことをさせられるのはほとんど本能的にいやがるけれど、
一人一人の縄張りに入り込まない「仲間」は昔から大好きでしたね。要するに中途半端?
いや、そうでもないと思います。その程度の「仲間」でなければやっていけないし、
仲間がいなければできないことはたくさんある。

とくに ことば はそもそも相手がいなければ始まらない・・・

あのね、「ことばはそもそも一人では成り立たない」って、ほんとに、そうだなあって、おもう。
だから、ことばを、身につけようとするときも、一人では、身につかなくて、そのことばを共有するだれかが、ぜったひひつようだって、わたしも、思う。
その、共有して、相互作用する、相手としての、だれか、を、仲間と、よぶのなら、
「仲間が必要」という部分にも、うん、そうだよね、って、素直に、いうことが、できる。
わたしは、学生時代の多読が、とぎれて、そのあと、再開したときに、ね、
同じ学習仲間としての多読仲間に、すごく、お世話になった。
掲示板とか、オフ会とか、東京に来てからは、調布でのおしゃべり会とか、いろんな場で、仲間に、育ててもらったなあ、と、おもう。
いまは、その頃の仲間からは、はぐれちゃったみたいな感じになってるけどね、
そして、まるで、さいしょっから、一人で大きくなったみたいな、顔して、海外の作家さんとか、courseraで出会った先生とか、学生さんとかと、
なんやかや、英語で、ことばを交わして、やりとりを、たのしんだり、学んだり、している。
ことばを、共有して、やりとりする相手、つまり、仲間、が、ツイッターとか、オンライン大学のおかげで、地球規模にひろがった、って、感じかな。
Tadokuは、おもしろいよ。知らなかった言語を、ほんとに、生きたままのことばとして、身につけていく道だからね。
それには、どうしても、仲間が、必要。仲間の範囲は、いろんな風に、かわっていくのだとは、おもうけどね。
ことばがそもそも一人では成り立たない以上、Tadokuには、どうしても仲間が必要ってのは、たしかに、そうだろうと、おもうなあ

なんだかとっても素直な気持ちを表現してくれて、ありがとう。

わたしが Tadoku三原則 の ①仲間といっしょに というときは、こういう単純な
気持ちを言っているのだと考えてください。仲間なんだからあれこれを同じにしよう、
同じに考えよう、なんてことは期待していません。
そんなのは鳥肌が立つくらいいやです。

そうじゃなくて、仲間といってもいろいろな距離のところに ことばを使う仲間 がいて、
それぞれがたがいにさまざまな道を歩んでいることを横目で見ている--それで十分
仲間なのだと思います。ある人はことばを使って商売をする、別の人はことばを使って
表現活動をする、奉仕活動をする。

使い方はさまざまでも、ことばを使う苦労や喜びは共通のところがあるかもしれない。
そうしたらそれを語り合って、また次の一歩を踏み出す。
そういう「仲間」でいいんじゃないでしょうか?

H さん、メールをありがとう!

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • Pocket
  • LINEで送る