わたしは多読はしていない・・・!

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・・・ということは前から言ってきました。それこそがわたしの本と「英語学習本」との違い(後注)だと・・・

そのことを改めて知らされる事件がつい最近あった!
Sarah Plain and Tall の朗読CDを聞いたのです・・・

驚きましたね。わたしは多読をしていなかっただけではなく、
多聴もしていなかったのではないか?
結局tadokuのうち、(tadokuというのは「多読、多読的リスニング、
多読的スピーキング、または多読、多聴、多話、多書」全部のことですが)
多読的ライティングもぼくはできていないような気がするので、
わたしができているのは多読的スピーキングだけかもしれない。

(わたしも音寄りの人?)

いやその、ナレーターのGlenn Closeのぶりっ子ぶりがすばらしいのです。
そして目の前で映像が広がるような地の文の部分も味わい深い!

「ことばは白い紙に印刷した黒い活字ではない」なんて言ってますが、
あれはまったくわかっていませんでしたね。Glenn Close の朗読で、
世界と物語と登場人物の表情や考えまでくっきり頭の中に再現されたような
気がしました。いや、まだちょっとコマ落としのような感じかな。
映画のように再現されるわけではないです。

ということは・・・

*ほかにもいっぱい朗読を聞いてきたけれど、あれはなんだったのか?
今回のSarah Plain and Tall のような鮮やかさはなかったぞ?
わたしの中の映像の蓄積が増えたため?

*文字を読むだけで頭の中で物語と場面が映画のように展開するといいな!
日本語の小説を読む時はどうなんだろう?

*文字だけ読んだ時、朗読を聴いた時、映像化されたものを観た時、
それぞれにどんな違いがあるのだろう? 違いの何を意味する?

これから1泊の小温泉旅行です。すぐ隣りの山梨まで行ってきます・・・


「わたしの書く本と英語学習本との違い」はたくさんありますが、
ここでは次の違いを言っています。

英語学習本の著者の言う事:
「わたしは英語ができる。わたしはこの本のやり方で英語ができるようになった。
みなさんも同じ方法で学習すればわたしと同じくらい英語ができるようになる!」

わたしの言う事:
「わたしは英語ができない。わたしと同じことをやってはだめだ。
わたしは多読をしていないが、学生たちで実験してみたらうまくいった。
だからみなさんもやってみるといいのでは?」

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